クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


↑奥医王山の頂上にあった石像。何年か前に登ったときにはなかった。


 一昨日、昨日と中部教区総会に出席してきました。帰りの汽車の中で、流れゆく景色を見ていると、教会があった。福井県鯖江駅を過ぎてすぐのこと。ここにも教会がある、ここまで伝道した人がいる、いや、神がここにまで教会を建てられたという感慨に浸った。


 それにしても中国における地震の被害はすさまじいものがある。耐震構造を持たない大きな建築物の崩壊は大きな犠牲を伴うことを知る。一軒家の崩壊なら、救助の余地もあるのに、巨大な瓦礫の山は救出を困難にさせている。


 ミャンマーではサイクロンによる災害が起きた。多数の犠牲者が出た。このような大きな災害に直面するとき、神をどう考えるのか、という問いが生じる。なぜ多くの犠牲者が出たのか。神の業なのか、神はとめることができなかったのか。


 僕はこのような災害は警告と受けとめる。神が世界を創造し、人間を造られた。人間は神との関わり、他者との関わり、自然との関わりに生きるように造られた。神には従い、他者を愛し、自然を管理するのが人間のなすべきことであった。神に背いた人間は、神との関係が壊れ、人間との関係が壊れ、自然との関係が壊れた。アダムとエバが罪を犯した結果、「自分を守る」「問題から逃げる」「人のせいにする」ことが人間の性(さが)となった。そしてこの世には人間同士の争い、敵対が生じている。戦争が起きて人命が失われるのも、通り魔によって犠牲者が出るのも、人間の罪の結果である。神との関係が破れた人間は、自然を管理できていない。人と自然も争っている。人は自然から収奪し、自然は人間に牙を向ける。


 神に立ち帰ることの必要を教えられるこの頃である。伝道は急務。