クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 昨日の日曜は、礼拝後、CS教師会があった。夏期学校の計画を協議した。僕は内心、楽しく遊ぶだけでよいのではないか、礼拝さえあれば、後は楽しく遊べばよいと思っていた。いかに楽しく遊ぶか、それを工夫しようと提案してもよいと思ったが、そうすると牧師の指示に従うことになり、話が発展しないように思えた。
 夏期学校のテーマとして、二つほどあがったのだが、祈りがテーマとして決まりそうになった。何でも祈ってよい、このことを教えたいね、という話になってきたとき、ふっと思いが与えられた。

「お金を拾ったとき、なんて祈る」。

 お金を拾った時、祈ろうという思いにはならないだろう。だからこそ、どんな祈りをするのか考えてみたら。

「神様、持ち主が見つからず、拾ったものが私のものとなりますように」

と僕が祈りを紹介したら爆笑。

 そこから、「こんな場合どう祈る」とお題を出して、いろんな答えを出し合って、それを楽しむことにした。そんなゲーム感覚で、いつでも、何でも祈ることを子供たちに伝えたいという流れが生まれた。話が続いて、「祈りが聞かれた不思議(驚き)な結果」というお題で、祈りが聞かれ、しかも驚く結果を子供たちに紹介して、祈りのすすめになるようにしたら、という話も出て、なんか、楽しみな夏期学校になりそうで感謝。

「ねえSさん、祈りが聞かれたあの話を一人芝居したら」と僕は笑いながら提案した。

夏期学校の主題は、「笑って祈りを学ぼう」。僕は用事があって途中で退出。CSの先生たちにすべては任せるつもり。ただ、考え抜いてユーモアと笑いを通して、祈りについて学ぶ夏期学校にしたいと願っている。


 今日は、説教について考えさせられた。考えるきっかけが二つあった。一つは、NHKのプロフェッショナルという番組の録画を見たことだった。そこでは、漫画編集者が、自分で漫画の台本を書き、新人の漫画家に自由に漫画を描かせている。漫画編集者は、新人の書いた漫画を出版社に売り込み、新人漫画家をデビューさせるという計画を持っている。新人漫画家は、これでデビューできなければ、漫画家はあきらめるという正念場。


 編集者は、新人の漫画家が描いたものに意見を言って、描き直しをさせるプロセスを繰り返している。編集者は「主人公の不屈な顔を描いてほしい」と注文をつけた。編集者は鋭い指摘をする。それに応えて描き続けるかどうか、編集者の期待に応えきれるかどうか。粘り強く、書き続けるかどうか、を編集者は見ている。番組では、新人漫画家は、最後には、編集者の納得する漫画を描いた。「彼はよく頑張ったね」と編集者。


 司会の茂木健一郎氏が「ものづくりのこつは何ですか」と質問した。漫画編集者は「自分を出すこと」と答えた。不屈ということをどう考えるか、それをどう表現するか、それは漫画家の宿題。そこには、漫画家自身が現れる。それが売り物になるかならないか、それが漫画家の実力。


 漫画編集者は、聖霊。編集者が書いた台本は聖書。新人漫画家は説教者である僕。説教を準備する過程では、この漫画編集者と漫画家との間の密なやりとりはほとんどない。悪くいえば、練られることなく準備された説教を礼拝で語っているように思えた。説教の場合、何回も原稿を書き直せる余裕はないし、また注文をつける人もいない。

 説教において、自分を出すとはどういうことなのか。説教もまたものづくりの一つである。自分の出ない説教。それは力ある説教になるのかどうか。多分、ならない。