クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.5.25)
聖書 コリント一15:12〜34 復活は本当だ

 聖書には、私たちの理性がすぐには信じられないことがいろいろ書かれています。キリストが与えてくれる究極の救い、それは最後の審判における救いです。私に躓かない者は幸いであるとイエス様は教えられました。すぐには信じられないことでも、聖書の語ることに謙遜に耳を傾けましょう。それが真理であることを悟ることができるように、聖霊様の導きを祈り続ける者でありたいと願います。


1.私たちは、宣べ伝えられたことを信じる者として、復活を信じる 


 パウロは、

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などないと言っているのは、どういうわけですか」

と書いています。
 死者の復活を否定する人の存在に驚き、それに対して反論します。死者の復活がないとしたら、当然ですがキリストの復活もありません(13節)。となれば、キリスト(が復活したこと)を宣べ伝えることもむなしく、ありもしないキリストの復活を信じるのは無駄なことです(14節)。死者の復活がないのに、神がキリストを復活させたと宣べ伝えるなら、それは嘘を語ることになり、神について偽証人になります(15節)。さらにキリストの復活がなかったら、私たちは「罪の中にあるまま」であり、罪の結果滅びることになります(18節)。


天国には入れません。


私たちがキリストを信じ、罪が赦されるのは、キリストの復活を信じているからです。キリストが復活し、死に勝利したことが、キリストの死が償いの死であることの証拠なのです。十字架の上でただ死んだだけなら、キリストの死が償いといっても、それはむなしく響くだけです。

「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:25)。

 イエス・キリストが十字架の上で死んで、復活したからこそ、十字架の死は、私たちの罪を償う死であったことがはっきりしたのです。このように、死者の復活がないとしたら、キリスト教は成立しないとパウロは反論しています。

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに」(12節)。

 私たちは、何をどのようにして信じるか、が問題とされます。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(15:3)。
私たちは宣べ伝えられたことを信じるのです。


 聞いたことを人が信じることの具体的な例、典型的な例は噂話です。ある人たちは、確かめもしないで噂を本当だと信じます。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。

 キリストについて、宣べ伝えられたことを聞くことから信仰が生まれます。私たちは、キリストについて、聞いて信じるのです。キリストを聞いて信じるには、聖霊の働きがあります。私たちは聞いたことを鵜呑みにするのではありません。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(12:3)とある通りです。


 コリント教会のある人々は、死者の復活を信じませんでした。そこには人間の考えがあったのです。その当時の人々の考え方、思想があったのです。ギリシャ思想には、人間の魂は肉体という牢獄から解放されて救われるという考えがありました。体を伴う復活というのは信じがたかったのです。


 確かに、人間の理性から見て、信じがたいことというものがあります。でも私たちは、人間が考えて、それは信じられると思えるから信じるのではありません。もしそうなら、信じられないと思えることは信じないことになります。もしそうなら何が信じられて、何が信じられないかは、個人によって異なります。信仰は主観的なものではないのです。

 私たちは、キリストについて、宣べ伝えられたことを信じるのです。私たちは宣べ伝えられたことを信じる者として、死者の復活、キリストの復活を信じるのです。あなたは、宣べ伝えられたことに対して、そうはいうが信じられない、そう言っていませんか。


2.私たちは、神をあがめる者として、復活を信じる 


 さらにパウロは、話を発展させます。パウロは、世の終わり、終末を語るのです。

「ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いでキリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます」(24節)。

 キリストの復活と世の終わりを関連づけて語るのです。まずキリストが今から2千年前に復活しました。そしてキリストがもう一度この世界に来られるとき、キリストに属している人たち、つまりクリスチャンが復活し、世の終わりが来ると書かれています。


そして世の終わりとは、どういう時でしょうか。

「神がすべてにおいてすべてとなられるためです」(28節)。

 終末の時、それは神が真に本当の神であることが明らかになる時です。この世においては、神の支配がはっきりとは見えません。神以外の力がこの世界を支配しているように見えます。しかし、世の終わりの時は、神こそ、真の支配者であることが明らかになるのです。

「キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼす」とあります。

 もしキリストの復活がなく、世の終わりがないとしたら、時間が永遠の昔から、永遠の未来へ流れていくなら、神がおられるかどうかは全くわからなくなります。神がいたとしても、神が存在しているのが疑わしいようなこの世の現実が永遠に続くのです。神がおられるのかどうか、わからないままになります。それは神の願うところではありません。神は世界を創造し、世界を終わらせます。この世界を完成させるのです。

(ヨハネ黙示録21:1)「 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き」

とあります。世の終わり、それは神の国の到来を意味しています。世の終わり、それは誰の目にもまことの神の存在が明らかとなる時です。世の終わり、それは神は本当におられた、神を信じて本当によかったと感激するときです。


 この歴史には神の計画があります。キリストの復活、それは神の計画の中で特別な出来事です。死者の復活を否定し、キリストの復活を否定するのは、神を否定することにつながるのです。私たちは神をあがめる者として、神の計画を信じる者として、キリストの復活を信じるのです。


3.私たちは、信仰者の体験から、キリストの復活を信じる


 パウロはさらに、体験からもキリストの復活が事実であることを論じます。死者のための洗礼についてパウロは論じます。死者のための洗礼がどのようなものか、不明です。死者の復活がないなら、それはむなしい行為です。人々がしている、それは死者の復活を信じてのことだ、とパウロは信仰者の行いから復活を証明します。

「なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか」。

 パウロにとって福音を宣べ伝える働きは、野獣と戦うに等しく、命の危険を帯びたものでした。迫害を受け、死の危険と隣り合わせでした。命を賭けても、キリストを宣べ伝えたのは、死者の復活、世の終わり、神がすべてにおいてすべてとなるときが来るのを信じてのことでした。

 復活がなく、死んで終わりなら、

「食べたり飲んだりしようではないか、どうせ明日は死ぬ身ではないか」(32節)

と享楽的になるのです。 神に仕えて死を辞さない、これは死者の復活、キリストの復活があるからです。


 さて、ここからが、今日の説教の本題です。今日の聖書は私たちにとってどういう意味があるか、です。私たちもキリストの復活、死者の復活を真実だと語るべきだと聖書は語りかけています。

普通、「キリストは十字架で死んだが復活したんです」と聞いたら、

人は二つの内どちらかの反応を示します。一つは、嘘、信じられない! もう一つは、本当!驚きだね。すごいね! 平然と「あ、そう」などと聞くことはできません。

信仰者というのは、キリストの復活が、私の身にも起こったのよ、すごいでしょ! 感激よ!

と語るものなんです。それがキリストの復活の証人と言うことです。パウロは何度も語っています。私たちも体験的に、キリストの復活が真実であることを伝えることが大切です。私たちもまた、この時代の人々に向けて、キリストの復活が本当のことだと伝えます。


 どのようにしたら、私たちは、キリストの復活の証人となることができるのでしょうか。一つには、神の偉大な力に期待して生きることによってです。パウロ祈ります。

「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(エフェソ1:19〜20)。

つづいて、

「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」。

 信仰者に対して絶大な働きをする神の力を経験できるのです。それはキリストを復活させた神の力と同じなのです。私たちが神の絶大な力を知り、この力について語るとき、私たちは、キリストの復活の証人なのです。


 第二に、キリスト者の新生です。イエス・キリストを信じる人は生まれ変わります。この生まれ変わりは、神の恵みとして生じます。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)。

 私たちは、自分を生まれ変わらせてくれたイエス・キリストを証しすることによって、キリストの復活の証人となるのです。

♪ 私は主にふれられて 新しく変えられた 
♪ イエスのみわざ誉め歌おう 私は変えられた
♪ イエスの恵み イエスの愛 何も〜のにもかえがたい
♪ 主を愛して主に仕える 新しい心で
♪ イエスのみわざ誉め歌おう 私は変えられた

 「私は主に触れられて、変えられた」という証しの歌です。私は50年間、嫌いで食べることができなかったナスを食べることができるように変えられました(笑い)。キリスト者の品格も形成されつつあります。


 私たちがキリストの復活の証人となれることは神の恵みです。証人になりましょう!


祈り


天の父、私たちの主イエス・キリストが復活されたとは、何とすばらしいことでしょうか。
エス様を支社の中から復活させたあなたの力は何と大いなることでしょうか。
偉大なあなたを賛美します。
それはすべて、私たちの救いのためでした。感謝します。
恵みの父、私たちにも、イエス様を復活させた偉大な力を経験させてください。
パウロは、祈っています。
「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」。
私たちは、あなたの大いなる力を悟り、あなたの力に頼り、期待し、それを語り伝えることができます。
あなたの大いなる力を語ること、それはキリストの復活を告げることに等しいです。
困難の中にある人に、あなたの大いなる力に期待する思いを与えてください。
あなたの大いなる力に感動しない冷めた不信仰を赦してください。
私たちもキリストの復活の証人になりたいです。
天の父、
イエス・キリストに結ばれた私たち自身が、復活し、生まれ変わった者として、この世を生きることができますように導いてください。
私たちを生まれ変わらせ、生かしてくださるイエス様を賛美して歩む者とならせてください。
生まれ変わって生きることができるあなたの恵みを与えてください。
信仰に生きる感激を与えてください。