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隠退牧師 holala によるブログ

聖書 出エジプト記 4:13〜23 主の裁きを告げる

内容観察
 モーセは「さあ、エジプトに帰るがよい」との神の声を聞き、エジプトに向かう。エジプトに着く前に神はモーセに、エジプト王に語るべきメッセージを告げる。

静聴

御父>19〜21節。神は一歩一歩導かれるかたである。ミディアンでは、「エジプトに帰るがよい」と命じる。エジプトへの旅の途上で、エジプト王に語るべき言葉を告げられる。

  • 神は一歩一歩導かれる方である。だから、一歩一歩の導きを受け取って従うことが大切。受け取り損ねてもいけないし、受け取ったなら従うことが大切である。

黙想>23節。神は、エジプト王の長子を殺すという警告を最初に告げるようモーセに命じている。

  • モーセの立場。神はいきなり、「エジプト王の長子を殺すことになる」と告げるように命じる。エジプト王がどう思うか、考えてしまう。でも神は語るように命じた。このメッセージは、福音宣教者が告げる最後の審判に重なる。イエス・キリストは「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と使徒信条にある。悔い改めない者を神は裁かれるのである。
  • モーセにしても、エジプトに行ったら何が起きるのかわかっていない。神から告げるように命じられたことを語る必然性も、その理由もわからない。でも語るように命じられた。エジプトに行き、神に従ってイスラエルを救出する働きをする中で、神が告げられたことが理解できるようになる。
  • エジプト王の立場。モーセから「主が長子を殺す」と告げられてもそれが何のことだかわからない。やがて様々な出来事が起こる中で、王は、主を知ることになる。主に従うチャンスはいくらも訪れるが、心を頑なにして、結局長子を失うことになる。モーセの語ったことがわかっても、その時は手遅れである。
  • 最後の審判はやがて現実化する。福音宣教者も、神がなぜ、最後の審判を告げるように命じているのか、その時になれば理解できる。

実践のための祈り
 天の父、今朝もデボーションを感謝します。あなたは一歩一歩、導かれるかたであると教えられ感謝します。だから、今日受けた導きに従い、明日の導きを受ける者でありたいと願います。デボーションを通して示された導き、適用を行う者になります。今日もまた、導きを与えてください。


 天の父、今朝は私の祈りについて一つの答えを与えられた気がしました。私は、最後の審判を行うあなたの気持ちを理解したいと願ってきました。聖書を十分に学べば、答えが得られるのかも知れません。答えを得る努力はさらにしたいと思います。今日の聖書から、その時が来れば、はっきりわかるということも教えられました。感謝です。


 この世の現実を見る時、たとえば独裁者が国民を苦しめている現実があります。これらの人々が最後の審判で裁きを受けても当然という気がしますし、彼らが裁きを受けないとしたら、神様の正義が疑われます。多くの人間は、巨悪は行っていませんが、創造者であるあなたを無視して生きており、これもまた裁きに価するということだと思います。あなたを無視した人間は、死後も神のいない世界に生きる、それが最後の審判の結果なのでしょうか。


 天の父、人間を愛するあなたが、最後の審判を行う時、どんな気持ちなのでしょうか。それを知りたいと祈っていますが、その時になればわかると今朝教えられました。神様、今日はどんな導きを受け取ることができるのでしょうか。 『何からの救いなのか』を読んで以来、最後の裁きについてもきちんと説教する促しを与えられましたが、今日も促しを与えられたような気がします。モーセは、エジプト王に主に対して頑なであり続けるなら、長子の死という結果を招くことを告げました。私たちもまた、創造主を認めず信じないなら、創造主を信じないとは言い換えると罪を犯して生き続けることですから、最後の裁きを受けるのが結論となることを教えられます。


 今、コリント前書の説教を行い、これが間もなく終わります。次は何を説教するのかを考えており、教団の信仰告白に基づく説教をしてはという思いがあります。信仰者は何を信じるのか、それを確認したいという思いがあります。そんな思いの私に、最後の審判を告げなさいというあなたの声を聞いたとするなら、説教プランに促しを与えられたような気がします。


 そこで天の父、今日は、教団の信仰告白を読んで、説教の主題を考えます。各主題については、四回の説教をすることにして、一年かけて説教できたらと思います。福音を教理を前面に出して伝えたいです。導いてください。今朝の導きを感謝します。


今日すべきこと

  • 教団信仰告白を読んで、説教のテーマを考える。