クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.6.1)
聖書 コリント一15:35〜49 復活の体

 私たち死んだらどうなるのでしょうか。天国に行くにしても、天国はあるんだという実感がほしいと思います。そうすれば平安な心で死を迎えられます。どうしたら実感が得られるのか、いつも考えています。ただ神様と共に歩む歩みを続けていると、天国が近いものになっていくことは感じています。天国の希望はどうしたら喜ばしいものに変わっていくのか、それも考えています。ヨハネ黙示録に書かれているような天国のイメージを想像するのもよいのかも知れません。


 今日の説教の準備をする中で、将来私たちがどうなるのかを思い、それに沿うような生き方をするのが、天国の希望を確かな希望にすることだと感じました。将来私たちはキリストに似たものとなるなら、今、キリストを目指して生きるのが一番よい生き方になります。そのことを聖書から聞きたいと思います。


1.私たちは自然の中に復活の体を見ることができる 

「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのかと聞く者がいるかも知れません。愚かな人だ」(35節)。

 パウロは、そういう問いを出す人を愚かだ、と断定しています。物事の表面しか見ないで、ものを言っているからです。私たちもこの世に毒され進化論に毒され、物事の表面しか見ない愚かさに陥っているかも知れません。

「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」(37節)。

 これは植物の種のことを言っています。種を蒔くとそこから芽が出て、葉が出て、やがて花が咲き、実を結びます。イエス様の言葉を思い出します。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。

 種が地に落ちず種のままならば、一粒のままです。種は地に落ちると死にます。地に落ちた種はやがて消えてなくなるからです。でもそこから命が芽生えます。種が蒔かれるとやがて、芽が出て、根が出て、葉が出て、実を結びます。種は、死ねば多くの実を結ぶのです。パウロはここに、死と復活を見ているのです。種が死んで、やがて命が芽生えるように、人は死んで復活するというのです。


 種を通して自然は、死と復活を教えているではないか、とパウロは語るのです。


 しかし人は、種を蒔けば芽が出て、やがて実を結ぶ、そんなの当たり前と思ってしまうのです。それ以上深く考えようとはしないのです。あなたはどうですか。芽が出て、葉が出て成長し、実を結ぶ、そこに驚きを見いださないのです。

  • 神様は全能でご自分がしたいと思うことは何でもできます。
  • 皆さんの知らない私の秘密を明かします。実は、私は空を飛ぶことができます。

 神様は何でもできると言っても驚かないのに、私が空を飛べるというと驚くんです。何か変ですね。人間は命を造り出すことはできません。植物の成長を見て、どうしてそうなるのか、と命の活動を見て驚いてもよいのです。そこに神の働きがある、とパウロは考えます。


そして種が蒔かれ、植物が成長する中に死と復活を見ているのです。

「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」(38節)。

 神が一つ一つの種に体を与えるので、様々な植物があるのです。多くの植物が存在する理由が述べられます。突然変異と進化によって種類が増えたなどとは言わないのです。


次にパウロは、生き物に目を向けます。

「どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います」(39節)。

 生き物がそれぞれの体を持っていることが語られ、体には種類があることを告げています。さらに

「また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています」(40節)。

 パウロは空に目を向け、太陽、月、星、それぞれに輝きが違い、それぞれの形が違うことを指摘し、天体もそれぞれの体を持っていると告げます。自然界には多くの体が存在し、植物の種は、私たちに死と復活のあることを示唆しています。


2.私たちは復活の体を信じることができる 

「 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(42〜43節)。

 人間の体にも種類があり、今私たちが持っている朽ちる体もあれば、復活した体もあるというのです。この体は、朽ちるし、卑しく、弱いものですが、復活の体に変えられる時、それは朽ちず、輝かしく、強いものになるというのです。

「自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(44節)。

 自然界に沢山の種類の体のあることを思えば、自然の命の体(私たちのこの体)が、霊の体に変えられると考えるのは自然ではないか、とパウロは語るのです。


昔のギリシャ人は、人が死ぬと魂は、体から解放され、永遠に生きると考えました。今でも多くの人が、魂が天国に行くと考えているのではないでしょうか。それは人間の考え出した考えに過ぎないのです。自然は、体に種類のあることを告げ、私たちはまだ見ていませんが、霊の体もあると告げているのです。


 さらにパウロは、アダムとキリストを対比します。アダムは最初の人間、私たちの先祖です。彼は死にました。そしてキリストは復活しました。アダムが罪のために死んだように、すべての人間も罪のために死ぬこととなりました。キリストは死んで復活し、キリストを信じる者たちが復活するようになりました。私たちはこの世にあって、アダムのように死ぬ者です。しかし、キリストに結ばれて、今は、生まれ変わりました。


 この生まれ変わりは、将来の復活が確かであることのしるしです。

「天に属するその人の似姿にもなるのです」(49節)。

 キリストを信じる者たちは、キリストと同じように天に属する者になります。私たちは将来天国人になります。私たちは復活して、キリストの似姿になるのです。似姿、それは霊の体における似姿ですね。私たちは霊の体に復活します。


3.私たちは、霊の体を待ち望む 


 霊の体とはどのようなものでしょうか。残念ながら、詳しいことはわかりません。経験的にそれが何の種かわかっていないのなら、その種からどんな植物が生えてくるのかわかりません。しかし、種を蒔き、時が来れば、それがどんな植物で、どんな花が咲き、どんな実を結ぶのかわかります。同じように、霊の体がどのようなものかは今わかりませんが、やがてわかる時が来るのです。


聖書を調べるとわかることがあります。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(コリント二3:18)。

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3:21)。

「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」(ヨハネ一3:2)。

 霊の体がどんなものかはわかりませんが、私たちは、天におられるキリストに似たものとされると聖書は告げています。私たちは、キリストに似たものに変えられることは確かなのです。だから私たちは、霊の体を待ち望んで生きるのです。


 神の言葉は、私たちは死んで魂となるとは教えていません。神の言葉は、私たちは、キリストの似姿になると告げています。霊の体、それをキリストの似姿と言い換えることもできるでしょう。このことはどんな意味を持っているのでしょうか。

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。

 パウロは、行いたい善を行うことができず、行いたくない悪を行う自分のみじめさを嘆いています。この体に罪が住んでいるからと述べます。そしてキリストによる救いを喜びます。キリストによる救いは、私たちを罪から解放します。キリストを信じる者は生まれ変わり、罪から解放されて、自由に生きることができます。その歩みは、キリストに似たものとされていく歩みです。


キリストに似たものとなる、それが救われるということです。


 将来、私たちがキリストの似姿に変えられるなら、今、この世にあって、キリストに似たものとなる歩みが、信仰の歩みになります。キリストに似たものとなることを目指す、そこに信仰者として生きる目標と喜びがあるのです。キリストに似たものを目指す時、人は神を愛し、人を愛し、堕落以前の神の喜ばれる人間に回復するのです。


 私たちが復活の体、霊の体を持つという考えは、キリストに似たものになろうという意欲を生みします。なぜなら、天国に入る時、私たちの歩みが完成するからです。天国に行く時の楽しみの一つは、霊の体がどんなものであるかがわかることです。そしてキリストに似たものとされていることを心から喜べることです。


 キリストに似たものとなる、何と素敵な目標が私たちに与えられていることでしょうか。神様は、何とすばらしい目標を私たちに与えておられることでしょうか。私たちはキリストに変えられるという最高の楽しみを持ってこの世の生涯を閉じることができるのです。


祈り

天の父なる神様、私たちに天国の希望を確かな希望として持たせてください。天国に迎えられる時、私たちはキリストのように変えられることを信じます。そして天国にふさわしい者とされることを信じて感謝します。それ故、今、キリストを目指して、キリストに似たものとなり、救われた者として生きることができるように導いてください。一歩でも、二歩でも、キリストに近づくことを喜ぶものとさせてください。さらにこの喜びを兄弟姉妹と分かち合い、励まし合うことができますように導いてください。この世の歩みを希望と平安を持って過ごすことができるように私たちを導いてください。体の弱まりの中にある方に対して、特に天国の希望を確かな者にしてください。
イエス・キリストのみ名により祈ります。