クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 夜の祈祷会であらためて思わされたことがある。説教一つとっても、受け取り方は人様々であること。週報に、何かを書く時、受け止め方も人様々であること。みんなが受け入れるような説教、みんなが受け入れることができる発言はできないことをあらためて思った。


 ある人がこうしてほしいと言えば、別な人は、このままでいいという。教会が一つになることはまだまだ道のりが遠い。人にはそれぞれ意見があるように、牧師にも意見があり、考えがある。牧師は八方美人にはなれない。それは不可能。誰もが納得のいくことを言うことはできない。ある人には受け入れられ、ある人には批判される、それが現実である。人の声に左右されず、神のみ心に聞いてそれに従っていきたいと思う。もちろん、人の意見に耳を傾けて、改めるべきは改めるが、人の声に左右されて自分を見失ってはいけないと思う。


 僕が今一番知りたいと思うことは、

最後の審判を行う時の神の気持ちである。

イスラエルの民がエジプトを脱出し、荒野を旅した。そして約束の地を目の前にした時、モーセは偵察隊を派遣した。約束の地は、実り豊かな土地であった。しかし、そこに住んでいる人々は強うだった。偵察隊の意見は分かれた。神に頼って、前進しようとの意見。前進すれば、自分たちは戦えば負ける。何でここまで来たのか。これなら、エジプトで死んだほうがよかった。荒野で死んだほうがよかったと嘆く不信仰の意見もあった。

 この時、神はイスラエルの民の不信仰を怒り、「あなたたちの信じたとおりになれ」と宣言した。神はイスラエルの民にすぐに約束の地に行くことを禁じ、荒野で40年生活することを命じた。その結果、「荒野で死んだほうがよかった」と言った人々は荒野で死んだ。その後、イスラエルの民は約束の地に入ったのだが、「前進しよう」と語った者は、約束の地に入った。


 天国とは何か。イエス・キリストがおられるところである。地獄とは何か。イエス・キリストがおられないところである。イエス・キリストを信じ、イエス・キリストと共にいることを願う者は天国に行く。イエス・キリストを信じない者は、イエス・キリストのいないところを望む。彼らはイエス・キリストのいない地獄に行く。人は自分の選んだ場所へ行く。最後の審判で、神は、あなたたちのよしとするところに行け、と言われるのだろうか。そしてイエス・キリストのいない地獄に、イエスを信じない人々が行くのを神は残念に思われるのか。そんな気がする。