クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.8.3)
聖書 エフェソ 2:1〜10 信仰は賜物

 これまで「信じる」ことについていくつか話してきました。信仰とは望んでいる事柄を確信すること。つまり神の約束を信じること。信仰は見ないで信じること。それが神の言葉であるからという理由で信じること。さらに信仰は態度に現れ、信仰は見えるものであることなど話してきました。そして今日は、信仰は神の賜物であることを学びましょう。


1.以前のあなたは死んでいた 

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(1節)。

あなたがたはイエス・キリストを信じる以前は死んでいた、と聖書は告げるのです。あなたは以前死んでいたんですって。どう思います?信じますか? 

「以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり」(3節)。

自分のやりたいように、自分がよしと思うところに従って生きていたということです。要はあなたは自由に生きてきたということです。それは「死んでいた」というのです。本当ですか? 信じますか?

 さらに

「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(3節)。

あなたは神の怒りを受け、最後の審判を受けて、永遠の滅び、地獄に行く者であったというのです。どうです、信じますか。

 イエスも同じことを語っています。

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(ヨハネ5:25)。

 イエスを信じない者は死んだ者だと告げています。しかしイエスの声を聞く者は生きるというのです。本当でしょうか。信じますか。


 イエスを信じて神のいのちを受けて生きる時、私たちは生きているのであり、神の命を受けないなら、生きているとは名ばかりだというのです。


 信仰を持つ前の私は、死の恐れと空しさに捕らわれていました。平安がなく、生き甲斐がなく、生きていることの喜びと感謝もありませんでした。だから「生きているとは名ばかり、実は死んでいる」(ヨハネ黙示録3:1)と言われれば、そうだったと認めます。


 あなたは死んでいますね、と言われたら、この世の人々はどう答えるでしょうか。私は、自分の夢の実現を目指して、生き生きと生きている、と返事が返ってくるかも知れません。自分が生きているか、死んでいるか、それは主観的な判断によるのではありません。神の命を受けているかどうかで決まります。神の命を受けて生きる人は、永遠につながる人生を歩んでいます。神の命を受けていない人は、この世ですべてが終わってしまう人生を生きています。おまけに最後の審判で、神の怒りを受ける人生を歩んでいることになると聖書は告げています。


 あなたは以前は、自分の過ちと罪のために死んでいた、これは本当でしょうか。どう思います。信じますか。


2.いまのあなたはキリストと共に生かされている 

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり」(4節)。

聖書は、憐れみ豊かな神がおられること、その神はこの上なく、私たちを愛していると告げます。本当ですか? 信じますか?


その神の憐れみ、神の愛は、どのようにしてわかるのでしょうか。その神の憐れみ、神の愛は、どのようにして体験されるのでしょうか

「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」(5節)。

罪のために死んでいた自分が、キリストと共に生かされる、あるいは、キリストによって生かされるという体験をすることができる、というのです。それによって私たちは神の憐れみ、神の愛が、自分に注がれていることを知ることができると聖書は告げるのです。


 でもこれは本当でしょうか。信じますか? もし信じることができ、神の憐れみと愛を体験できるとしたら、それはあなたの努力の結果でしょうか。それとも神の恵みなのでしょうか。

「キリスト・イエスによって共に復活させ」(6節)。

死んでいたものが生きるようになる、これは復活です。私たち信仰者は、今、復活して生きているというのです。本当ですか。信じますか? 


 聖書はそう告げます。罪に突き動かされる人間が、愛によって生きる人間へと回復されます。「肉や心の欲するままに行動」して、自分のために生きていた人間が、他者を愛して生きるように生まれ変わるのです。本当ですか?信じますか?あなたの今の現実はどうですか。


 生まれ変わるとか、復活したとか、わかりにくいですね。わかりやすくいうなら、あなたの考え方が一新するということです。今までは、自分の経験や自分が身につけてきたものの見方、考え方で生きてきました。しかし今は、聖書に即して物事を考えるようになること、聖書の言葉に従ってものを考えるようになります。自分の考え方の土台を聖書に置くのです。


 考え方の転換、これが生まれ変わりであり、復活です。これは神の導き、聖霊の導きに拠ります。考え方が変わると行動も変わります。これが生まれ変わること、死んだ人間の復活です。考え方が変わらないのに行動だけ変えようとするには無理があります。考え方を変えれば行動が変わります。皆さんの考え方は、どれほど変わりましたか。

「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」(8節)。

「救われた」とあります。自分が死んでいた者であることに気づかされ、イエス・キリストと共に復活した、つまり新しい人間に復活するという救いを与えらたというのです。私たちは生まれ変わるのです。神の恵みによって、新しく造られた者となるのです。本当でしょうか?信じますか?


 あなたは罪のために死んでいましたが今は、イエス・キリストと共に復活して新しい人になっているのです。聖書はそう告げています。これは本当でしょうか。どうです、信じますか?

「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」(10節)。

 私たちは善い業のために、つまり、善い業が行えるように、キリスト・イエスにおいて造られたとあります。イエスを信じ、神の命を受けた私たちは、善い業が行えるように造られているというのです。本当ですか。信じますか?

「わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(10節)。

 私たちは善い業を行えるように造られているから、善い業を行うのです。クリスチャンだから、頑張って善い業を行い、立派なクリスチャンであることを証明する必要などないのです。私たちは善い業を行えるように造られているから、だから善い業を行うだけです。私たちは二本足で歩けるから、歩くのと同じです。本当ですか。信じますか?


3.信仰は賜物 


 何回も信じますか? と問いを投げかけてきました。もし全部、「信じられる」と答えられる方は、その信仰が神の賜物であることを認められると思います。


「信じられない」と返事をしたとして、別に不信仰ではありません。自分の力、自分の努力では信じられない事柄を聖書は告げているということです。


「信じる」という行為は、この世の人が普通に行っている行為です。天気予報で雨が降ると言えば、多くの人は信じて、それに対する備えをします。「私はあの人に裏切られた」と人が言う時、その時までは、人を信じていたのです。人は自分の経験から、自分の理性が納得する範囲で、信じることをしているのです。


 でも聖書が告げることを、自分の経験と自分の理性によって信じようとすると、信じられないことに直面します。聖書が告げることを信じる時、神様が信じさせてくださるという面があるのです。


 信仰には、自分の決断という側面があります。イエス・キリストを救い主と信じると決断して洗礼を受けた方はここに沢山おられます。私たちは聖書を読むごとに、それを信じるかどうか、問われます。聖書が告げることを信じるのは、神の導きに拠ります。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです(コリント一12:3)。


 「聖書は神を啓示する」と教団信仰告白にあります。私たちが聖書を読む理由に、神を知るという目的があります。神はどういう方なのか。人間のために何をしてくださる方なのか。聖書は神を紹介しています。


 聖霊の導きを祈って聖書を読み続ける時、聖書が告げることを真理として信じる信仰が与えられます。聖書が告げる神を、聖書が告げるとおりに信じることができるようになります。聖霊の導きを求めつつ、神はどういう方なのかを聖書から読んでいく時、神の与えられる信仰に必ずや導かれることでしょう。それは確信に満ちた信仰になります。


 あなたは自分の経験と理性が許す範囲で信じていますか。それとも神の賜物としての信仰を与えられ、聖書が告げるところをアーメンと信じておられるのでしょうか。