クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.9.14)
聖書 エフェソ 2:19〜20 教会の拠るべき唯一の正典なり

1.聖書は、「教会の」拠るべき 

 日本基督教団信仰告白は、

「旧新約聖書は、教会の拠るべき唯一の正典なり」

と告白します。聖書は、「教会が唯一拠り所とするもの」「教会にとってただ一つ支えとなるもの」「教会がその土台とするたった一つのもの」との意味です。なぜ、ここで「教会」が出てくるのでしょうか。


 聖書は「私たち信仰者の拠り所である」というほうがわかりやすいです。実際、聖書は、私たちが本屋へ行けば、買うことができます。信仰があろうとなかろうと、個人的に聖書を買って読むこともできます。個人的に聖書を読み、信仰に導かれて人もいます。この信仰告白が、聖書は「教会」が拠り所とするものだと主張する時、そこには特別な意味があります。


 つまり聖書は、神様が教会に与えられたものだ、ということです。エフェソ書にも

「あなたがた(教会)は、神の家族であり、使徒預言者という土台の上に立てられています」

とあります。「使徒預言者」とは、聖書のことです。


 教会は「キリストの体」と聖書にあります。これは、教会は何かを適切に表現したものです。イエス・キリストを信じ、教会に連なる者は、キリストに結び合わされるのです。神が聖書を教会に与えたということは、聖書は、教会を通し、キリストの体につながって生きる人に与えられたことになります。


 教会に連なる信仰者たちは、キリストの体に連なります。キリストを通して、互いが結び合わされます。キリストを通して、互いに結び合わされている人たちに神から与えたのが聖書です。


 信仰者は、一種の共同体をつくるのです。エフェソ書はこれを神の家族と読んでいます。家族は築かなければできあがりませんから、私たちは聖書をもとに、神の家族を築くことになります。信仰者は神の家族として、互いに関係を持つのです。


 教会では、日曜日に礼拝が行われ、礼拝が終わると人々は教会を去り、それぞれの生活に戻ります。あたかも一人一人がバラバラに信仰生活を送っているように見えます。たまたま日曜日、礼拝のために同じ場所に集いますが、一人一人それぞれの信仰生活を送っているように見えます。お互いの信仰生活は、関係ないように見えます。


 もしお互いの信仰生活がバラバラだったら、私たちはキリストにつながっていないのです。私たちは神の家族、教会ではないのです。


 聖書が

「あなたがたは互いに愛し合いなさい」

と教える時、それは、キリストにつながる者は、互いに愛し合いなさいと命じているのです。私たちがバラバラに信仰生活を送るのなら、互いに愛し合うことは起こりえないし、その聖書の教えは空しくなります。


 聖書はあくまでも、神が教会に与えられたものであり、神がキリストに結ばれて生きる人に与えられたものだとこの信仰告白は主張するのです。


 私たちが聖書を読むとしたら、教会に連なる者として、キリストに結ばれて生きる者として聖書を読むということなのです。聖書には、神が願う人間の生き方が書かれています。教会とは関係なく、それを人間の生き方を読むこともできます。教会とは関係なく、自分が生きるために、力をもらうために、聖書を読むということもあります。しかし、「教会の拠るべき」という言葉は、キリストに結ばれて生きる者いう自覚の下で読まれるものであるという意味です。


2.聖書は、教会にとって「唯一」の「正典」である


 正典という言葉は、ギリシャ語で kanon と言います。定規、基準、規範を意味します。日本語に訳されて「正典」となります。正典とは、宗教において公式に信者が従うべき基準として確立されている文書を指します。


 では今の聖書はどのようにしてできあがったのでしょうか。イエスの弟子たちによって福音が宣べ伝えられ、教会が各地にできていきます。やがてイエスのことを知っている人々が死んでいきます。そこでイエスの活動、教えを後の世の人に伝えるために福音書が書かれます。また教会に問題が起きると、使徒パウロを始め、ヤコブ、ペトロなどの指導者が教会宛に手紙を書き、教え導きます。こうして、福音書とか、手紙とか、信仰的な文書が書かれることとなります。


 それらの文書の中には、イエスの弟子たちの名前を借りて書かれたものなどもあります。それらの中には、実はいかがわしいものもあります。やがて教会の中で信頼できるとされた文書が集められ、それが聖書としてまとめられていきます。


 キリストを世に伝え、キリストにつながる者の生き方を示すものとして、聖書はなくてならぬものになっていきます。397年、カルタゴ会議という会議が開かれ、27の書物が権威あるものとして認められ、今日の新約聖書ができあがります。聖書は正典であると告白することによって私たちは、聖書は、信仰生活にとって、基準、規範となる書物ですと言い表しているのです。


 さらに聖書は、「唯一」の正典であると教団信仰告白は述べています。ヨハネ黙示録の最後にこんな言葉があります。

「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる」(ヨハネ黙示録22:18〜19)。

 聖書は、必要にして十分な内容を持っているのです。

 この聖書が不十分であるかのように考えて、何か別なものを聖書と同等に扱うことを拒否する、と信仰告白は宣言します。たとえば、新共同訳で「続編付き」というのがあります。カトリック教会では、続編とされる書物が、聖書に加わっているわけですが、私たちは続編付きを使いません。それは、旧新約聖書を唯一の正典とすることに反するからです。
またカトリック教会では、伝統ということを持ち出して、教会が教えてきたことを聖書と同等に扱うことがあります。たとえば聖母マリア崇拝。これは聖書に書かれていないので私たちはしません。


 教団信仰告白は、聖書以外のものを基準とすることを拒否するのです。でも、聖書一冊だけで、私たちは信仰生活を生き、人生を生き抜くことができるのでしょうか。聖書だけで、人類の問題がすべて解決するのでしょうか。聖書だけで十分だ、と教団信仰告白は宣言するのです。聖書に全幅の信頼を置くのです。


 これさえあればよい、これは安心です。日本では沢山の神がいますね。安産の神、受験の神、商売の神。いったいいくつの神を崇めたら安心して生きることができるのでしょうか。唯一の神を信じればよいと聖書は教えていますが、単純明快です。


3.聖書を読み続けるために 


 聖書は神が教会に与えたものです。神は、教会につながり、キリストにつながる者に聖書を与えられました。私たちは聖書を読む時、自分のことだけではなく、教会のこと、他の兄弟姉妹のこと、家族のこと、救いを必要とする人々、この世のことを考えるのです。


 自分のために読んでいた時と比べて、神様は豊かに語りかけてくださいます。


 聖書は、教会にとって唯一の拠り所です。教会に連なって生きる私たちにとっても唯一の拠り所です。私たちが本気に聖書を唯一の拠り所として読む時、聖書の言葉は、約束や励ましの言葉として立ち上がってきます。御言葉との出会いが生じます。それと反対に、聖書だけでは不十分でと考え、自分の知恵や、世の知恵を借りる時、その人にとって、聖書の価値はどんどん低くなっていきます。


 聖書は、神が与えたものです。聖書を読む時、神の語りかけとして読み、神の語りかけに応えていくことが大切です。応えていく中で、聖書の言葉が真実で、信頼に足る真理であることが確信されていきます。


 たった一冊の聖書に信頼すればよい、これは幸いなことです。聖書が私たちの人生の羅針盤となるのです。聖書が本当に、信頼できることがわかる時、体験する時、私たちの信仰は、生き生きとしたもの、そして揺るぎないものとなっていきます。その時、私たちは、喜びと平安と使命に生きることができ、神様に感謝と賛美を献げるようになります。