クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 最近は朝早く起きて、神学書を読んでいる。目標がある時は、勉強に熱が入ることを思う。弟子コースの学びは、教理を学んでいる。教理を冷たい教えとして学ぶのではなく、それを感動できるように学ぶ。まず自分自身が感動できなければ、その感動を人に伝えることはできない。感動を伝えるという目的意識が、勉強するのによい刺激となっている。そして、今までの自分の知識が曖昧であることも痛感させられた。


 この年になって、また学び直し。信徒を育てるという目的意識がない時期の勉強は、知識を曖昧なまま脳に残した。遅まきながら、また勉強のし直し。今度は、感動を目的に。5時から男という言葉がある。会社が終わってから生き生きとするという意味。僕は雇われて午後の3時、あるいは5時から働き始めた労働者を自分に重ねることが多い。この年になって、学び直し。


 午後、知らない人が訪ねてきた。

AからBに行こうとして、自転車で旅しています。疲れているので、休ませてもらえませんか。

何時までですか

夕方までです

 夕方になって

今晩泊めてもらえませんか

 事情を色々聞いた。妻と相談した。物乞いに来る人への対応をどうするかは、悩ましい問題だ。今回は、自分にできることとできないことの境界線を引いた。人からしてほしいことを人にしてあげなさい、とのイエスの教えがある。相手の願うことをしてあげればよいのか。すると嫌々ながら、そして不安を抱えながら泊めることになる。これを続けるとストレスがたまる。物乞いに来る人を疎ましく思うようになる。人をそのような目で見るのも嫌だ。自分が喜んでできるのはどこまでなのか。境界線を引くことにした。喜んでできる範囲のことをした。感謝をしながら彼は旅だった。


 日本の国が暮らしにくくなっていることを感じる。