夜中に目が覚めた。「死んだらどうなるのだろう」との思いが頭をかすめた。昔のように死の恐怖におののくことはなくなったが、心の中は、何か寂しいような、変な気持ちだった。天に召された教会員の息子さんが亡くなり、その葬儀の依頼を受けていた。事情があり、葬儀は行わなくなったが、火葬に立ち会い祈ることになっていた。そんなことが意識の中にあったので、ああいう思いが頭をかすめたのだと思う。
そして朝、6時頃に目が覚め、神学書を読む。これが習慣になればよいと思っている。そこには人間は神の似像に創造されたこととアウグスティヌスの有名な言葉が書かれていた。そして、なるほど! と思う言葉があった。なるほど!と思った言葉とは、
「共通の人間経験としての不満の自覚」
という言葉である。
アウグスティヌスの言葉とは、
あなたは私たちを御自身に向けて造られたのです。私たちの心は、あなたに憩うまでは不安なのです。
ギリシャの哲学者プラトンは、人間を水漏れのする器にたとえたそうである。人間というのは、どこか常に満たされないでいるものだ、ということを表している。
神の似像に造られた人間本性の内部には神と関わる能力が組み込まれている。しかし人間本性は罪に落ちたために、神と関わることができない。そして他のものを使って、心を満たそうとする。しかし満足は得られない。
僕が神を求めた理由の一つには空しさがあった。色んなことをし、色んなものを手に入れた。でも満たされなかった。神を信じ、神と共に生きるようになった時、心の空洞は満たされた。でもまだ完全ではない。アウグスティヌスが語るように、神のもとで本当に憩うことができる時、心は満たされるであろう。夜中に目覚めた時の心、それはまだ神のもとで真に憩いを得ていない心の現れなのかも知れない。