クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.11.30)
聖書 ヘブル10:1〜10 「御子は、己を全き犠牲として神にささげ」。


 新聞の一面に載るような犯罪を犯した人の親はどんな思いになるのでしょうか。今日の聖書に関連して後で触れたいと思います。


 自分の気持ちを伝えるって大事だと思います。ラジオで身の上相談を行っていますが、家庭内の事柄の相談が多いです。自分の気持ちを相手に伝えれば、と思うことがしばしばです。ただ自分の気持ちを伝えると、相手と衝突する可能性があります。そこで、衝突しないで解決するにはどうしたらよいか、と相談になります。私の答えは、自分の気持ちを伝えるのがよい、ということになります。


 神様に対して私たちの気持ちを伝える一つの形が信仰告白です。私はあなたのことをこう信じています、と伝えるわけですね。


1.自分の言葉で言い直す 


 礼拝で告白するのは使徒信条と日本基督教団信仰告白で、内容が決まっています。そこで告白する時、自分は何を言っているのか、その意味を理解する必要があります。そうしないと、告白はしても、神様に何も語っていないことになりかねません。唱えて終わり、となりかねません。

 たとえば「神が全能であると信じる」と告白します。神だから全能なの当たり前じゃないか、と言うなら、実は何も語っていません。神は全能、だから<私は神に期待して祈っている>。これは意味のある言葉です。神が全能だから、私は神に期待する。「だから」があると告白が意味のある告白となります。「だから」に続く内容を心に持ちながら、告白したいと思います。


 今日は、イエスは、御自身を全き犠牲とした、との告白を取り上げます。この告白において私たちは何と告白しているのでしょうか。


今日の聖書は、二つのことを述べています。「御子は己を全き犠牲とした」。だから、

  • 私たちは聖なる者とされている。
  • 私たちは完全な者とされている。


2.和解 


 人から嫌なことをされて赦せないと思うことがあります。嫌なことをした人が身近な人で、その人を無視することができないとしたら、どうしましょう。口をききたくなくなります。関わりたくなくなります。相手を無視したくなります。


 相手が謝ってくれば、赦すことができます。謝るだけでなく、その気持ちが真実であることを示すために、償いの気持ちを表してくれれば、さらに赦しやすくなります。相手が謝っても、償いの気持ちを表しても赦せないなら、その人との関係は破綻します。


 神と人間の関係はどうでしょうか。旧約聖書には、神の民としてイスラエル民族が登場します。彼らは神の戒めを与えられています。人が罪を犯した時、動物をいけにえを捧げることを神は命じています。いけにえをささげ、償いをするなら、赦すと神は、言われたのです。そこには一つ問題点がありました。動物の犠牲は、人間の心を変えることができないという点です。人は罪を繰り返してしまうのです。罪を取り除くことができないのです。


 イエス・キリストは私たち人間のために、御自身を罪の償いとしました。今日の聖書には、びっくりすることが書かれています。動物の犠牲と違い、イエスの血は、人を聖なる者とし、さらに、人を完全なものにするとあります。このことの意味を理解したいと思います。


3.私たちは聖なる者にされる 
 

「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(10節)。

私たちは聖なる者とされたと聖書は告げます。聖なる者にされる、信じますか。


 神様が、私たちのことを聖なる者、と言ってくださるのです。神様、私が聖なる者であるなんて、嘘言わないで下さい、などと言ってはならないのです。神が私たちを聖なる者と認めると言われるのですから、それを信じることが大切です。


 自分の気持ちで信じることができる、信じることができない、というのは、間違いです。自分の気持ちは変化するからです。私たちは聖書が語ることを信じるのです。そうすると信仰はぶれないのです。


 私たちは罪深いのです。神に感謝すること少なく、神の気持ちを考えず、自分のことしか考えないことが多いのです。しかし神は私たちのことを聖なる者と言われるのです。それを認めることが大切です。信じるとは認めることです。私たちは罪赦され、罪清められて聖なる者とされました。


 それを信じ抜くことが大切です。それを疑わないことが大切です。あなたは何者ですか、と聞かれたら、私は聖なる者です、と答える必要があります。神様がそうしてくださったのですから。


 神が私たちのことを聖なる者と見てくださることは言い換えると、私たちは罪に定められない、ということです。罪に定められないことも、信じ抜きます。ローマ8:1でパウロは述べています。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。

 私たちは罪を犯す自分を見て、罪深いとか、聖なる者とは言えない、と考えます。それは人間の考えであって、神のみ心ではありません。神は「あなたがたは聖なる者、罪に定められない者である」と言って下さるのです。これを信じることです。信じ抜くことです。決して疑わないのです。これがキリストの救いを恵みとすることです。


 犯罪を犯した子供を持つ親の気持ちってどんなものでしょうか。親はわが子をどう思うのでしょうか。人によって違うでしょう。子供が「罪を犯しました」と罪の告白を聞く時の親はどんな気持になるのでしょうか。


 ある親は「とんでもない子だ、親に恥をかかせて」と言うでしょう。別な親は、罪を犯す人間の弱さ、頑なさを悲しむのです。そしてその子が立ち直ってほしい親の気持ちは、「私はおまえを罪に定めない、私は、おまえは罪を悔いているのだから、罪から清められていると見なす」というものです。世間の人はそうは思わないでしょうが、親だからそう思うのです。それは、神に似せて造られた者としての親の思いです。


4.私たちは完全な者とされた

「律法は、神に近づく人を完全なものにすることはできません」(1節)

「キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」(14節)。

 私たち信じる者は完全な者とされたというのです。完全な者とはどういう意味なのか、と考えずにはおれません。ヘブル書には、神に近づくという言葉が繰り返されています。完全な者とは、本当に「神に近づくことができる者」と考えることができます。私たちが「神に近づく」とは何を意味しているのでしょうか。二つの意味があります。

第一に、私たちの願いを言うために、神に近づくという意味です。

ヘブル4:16。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。私たちは、神から受け入れられています。だから私たちは遠慮なしに神に近づくことができ、そして大胆に願うことができます。キリストによって完全にされた者は、神に大胆に求めることができるのです。

第二に、神の願いを聞くために、神に近づくということです。

 神に近づく時、私たちも神をありのままに受け入れるのです。言い換えると、神の教えを受け入れるのです。その時、私たちは、素直になり、従順になります。


 罪があると、神の教えを受け入れることができません。私たちのうちに頑なさがあり、神の教えを受け入れないのです。神様「そんなことは言わないで」となります。罪があると素直に神のみ心を受け入れることができません。神を受け入れるとは、神の教えを素直に受け入れることです。神に近づくのは、願い事をするだけではなく、私たちに対する神の願いを聞くことでもあります。


 神は私たちを受け入れ、聖なる者と見てくださいます。私たちも神を受入、神に従順に生きることができるのです。ここに神との真の交わりが生まれます。私たちが完全な者とされたからです。それはイエス・キリストという完全な犠牲、いけにえのおかげです。

  • あなたは罪に定められない者、聖なる者です。これを信じ抜きますか。
  • あなたは完全の者にされたと信じますか。
  • 神に受け入れられていると信じて、大胆に神に求めますか
  • あなたは、神を受入、大胆に神に従順になれますか。

祈り

 イエス・キリストが御自身を犠牲として献げてくださったおかげで、私たちが聖なる者とされ、また完全な者とされたという驚くべき恵みを知らされ感謝します。どうかこの恵みの意味を理解し、この恵みを感謝して受け取ることができますように。

 罪があると、あなたに大胆に願うことができません。また祈りが聞かれるとの信仰を持つことができません。罪を悔い改め、あなたに受け入れられていることを知って大胆にあなたに近づき、あなたに求めることができますように。

 また罪があると、あなたに聞くことができません。私たちの頑なさが、あなたの教えを聞くたくないと耳を閉ざします。この頑なさを素直に認めることができますように。そしてありのままに、私たちもあなたを受け入れることができ、私たちに対するあなたの願いを素直に、喜んで聞くことができますように導いてください。

 私たちのうちにおられる聖霊様が私たちの心を新しくしてくださることを信じます。どうか私たちが、心の一新をあなたに求め、聖霊の働きを求めることができますように導いてください。

 まだ信仰を持っていない方もおられます。聖霊様がその方たちを導いて、信仰の告白へと導いてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。