クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.2.8)
聖書 ガラテヤ 5:16〜26 義の実を結ばせる


1.神の御心に生きる我ら 


 私たちは神を信じます。神を信じるように招かれています。神はイエス・キリストを信じる者を神の子とすると約束されました。私たちに対する神のみ心は、私たちが神の子として生きることです。子を持つ親は、子の成長を願うでしょう。神もまたイエス・キリストを信じる私たちが神の子として成長することを願っています。


 神の子である私たちは、親を敬い、夫婦互いに愛し合い、子を愛します。幸せな家庭なります。家族が幸せになります。そして神の家族である教会さらには隣人を愛します。そのために神の子として生きること、神の子として成長していくことが、私たちの幸福です。神の用意された私たちの幸福です。


 桜の木は桜の花を咲かせることが幸せです。リンゴの木はリンゴの実を結ぶことが幸せです。私たちは神の子としての実を結ぶことが幸せです。日本基督教団信仰告白には、

聖霊は義の実を結ばしめ、そのみ業を成就したまふ」

とあります。私たちは、聖霊に導かれて、義とされた者としての実を結ぶというのです。
実を結ぶ、うれしいことです。実を結ぶ信仰者になりたいです。そして実を味わいたいです。クリスチャンになった幸せをしみじみと味わいたいです。

2.霊の導きに従って歩む我ら 


 今日の聖書には、こう書かれています。

「霊の導きに従って歩みなさい」(16節)

皆さんは、聖霊に導かれて歩んでいますか。聖霊に導かれて歩むことがどんなことか知っていますか。霊の導きに従って歩む喜びを味わっていますか。聖霊に導かれるとはどんなことをいうのでしょうか。


 神の霊にとりつかれることなのでしょうか。熱狂的になってしまうことでしょうか。それとも神秘的な経験なのでしょうか。いずれも違います。


 聖霊に導かれるとは、聖書を神の言葉と信じ、聖書の言葉に従って生きるようになることを言います。導かれるのですから、私たちには受け身になります。でも、導きを受けたいという意思表示をすることが必要です。聖霊は、勝手に私たちを導くことをしないからです。


 まず、聖書の言葉を悟らせて下さいと祈って聖書を読むことから始まります。み言葉にしたがって歩みたいので、目を開かせて下さいと祈って聖書を読むことから始まります。そして聖書を神の言葉として信じて読むのです。そして聖書の言葉を思い巡らすのです。聖霊の導きを受けるために私たちがすることです。なあんだ、そんなことなのか、なんて言わないでやってみてください。すると聖霊の導きを受けるようになります。


 聖書に書かれている「具体的なの言葉」を神の言葉と信じるようになります。聖書の個々の言葉を神の言葉と信じるとき、その言葉にとらえられるのです。聖書の言葉を自分の生活に適用するようになります。その言葉が私たちの内にあって働くようになります。


 その聖書の言葉が、私たちの力となり、喜びとなり、誇りとなるのです。その聖書の言葉を実行することが幸せとなるのです。聖書の言葉は、従うべき言葉なのではなく、従いたい言葉となるのです。詩篇19編は、神の言葉をこうたたえています。

主の律法は完全で、魂を生き返らせ
主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え
主の戒めは清らかで、目に光を与える。

 聖霊に導かれるとは、ただ理性を持って聖書を読むのとは異なります。ただ知性を持って聖書を読むのとは違います。

「夜明けに先立ち、助けを求めて叫び/御言葉を待ち望みます」(詩編119:147)。

聖書に向かうとき、期待感があふれるのです。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)。

 聖書の言葉こそ、私の歩みを導く、との信仰告白が生まれるのです。神を愛するとは、神の戒めに従うことですから(ヨハネ一5:3)、聖霊に導かれるとは、神を愛するようになることです。


 私たちが聖書の言葉に導かれないと、私たちが結ぶ実は、肉のわざと呼ばれるものです。

「それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(19節以下)。

 これを悪徳表と言います。多かれ少なかれ、信仰を持つ以前の私たちが結んでいた実です。信仰を持ち、聖書を読むに従って、私たちの内に葛藤が生じます。聖書の言葉に従って生きようとするのです。すると、み言葉に従えない、いや従いたくない、という思いが出てくるのです。私たちは罪深いので、「従いたくない」という言葉は口にせず、従えません、無理ですといいわけをします。そして、実際的に聖書の言葉に従うことができないのです。

「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(17節)。

 「肉」とは生まれながらの私たちの性質です。堕落した人間の性質は、神の言葉を喜んで従うようにはできていません。逆に、神の言葉に逆らおうとするのです。この反逆を罪と呼びます。「肉と霊の対立」。これが信仰者の悩みです。


 しかし、感謝すべきことに聖霊に導かれるとき、肉に打勝つ道が開けるのです。自分の力、努力では開けない道が開けるのです。具体的な聖書の言葉を思い巡らしていく内に、私たちの心が清められます。すると不思議なほどに自然にみ言葉に従えるようになるのです。時には、聖霊の力を信じて、思い切って、み言葉に従うこともあります。すると、み言葉に従う喜びがわき上がるのを経験します。


 このように神は、私たちが聖霊に導かれて歩むことを望んでおられます。そこに、神の子としての成長があります。信仰者として、キリストに似た者となるという成長があります。堕落以前の、神がよしとされた人間への回復があります。


3.実を結んで生きる我ら


 霊の導きを受け、み言葉に従う歩みを積み重ねるとき、実を結びます。私たちの思いは行いとなり、行いは習慣となり、習慣はやがて性格、人格となります。聖霊に導かれ、み言葉にしたがってできる人格、聖書は、それを聖霊の実と呼びます。


 ブドウの木はブドウの実を結びます。それはブドウの木が生きているからです。聖霊に導かれる信仰者は聖霊の実を結ぶようにできています。聖霊の実が紹介されています。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。

 信仰者は、こういう実を結んでいくわけです。


 実を結ぶクリスチャンの存在は、未信者には、驚きです。自分にはないものだからです。私もそうなりたいと人に思わせる力があります。私たちがどれほどの聖書の知識を持っているかは見えません。私たちが具体的な聖書の言葉を適用し、実践するとき、その信仰は見えるものとなります。これが実となっていきます。


 コリント二3:18にこうあります。

「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」。

 聖霊の働きにより、私たちはキリストに似た者へと変えられるとあります。信仰者の経験する幸いです。私を変えてくださる神の栄光が現れるのです。神様によって変えられる栄光を受けることができます。私たちは、「聖霊は義の実を結ばしめ、その働きを成就したもう」と信仰の告白をしています。この告白がお題目に終わってしまうことを恐れます。聖霊の実を結び、喜びと誇りをもって、神様は実を結ばせてくださったと、神に栄光を帰する信仰者になりたいものです。


 私はもっと豊かに喜びの実を結ばせたいです。誠実の実、節制の実を結びたいと願っています。皆さんはどんな実を結びたいですか。