クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今日は礼拝で、森祐理姉北陸メロディ会の発足と賛美の集会があった。メロディ会は、福音歌手森祐理さんの働きを祈りをもって支える会である。彼女の賛美と証を聞いていると感動する。神が生きて働かれる方であると知らされる。

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 弟子訓練をする牧師が気をつけるべきことがある。キリストに従う弟子を育てることが目的であって、自分に従う弟子をつくってはならない。牧師の語ることは神の語ることだと、自分を権威づけてはならない。


 弟子訓練をするとは、牧師がみ言葉に従う模範を示すことであり、牧師が自らキリストの弟子となることである。パウロは、自分がキリストに倣うように、私に倣いなさいとコリント教会に語ったように、牧師は模範を示すことが大切である。「私に倣いなさい」が「私の言うとおりにしなさい」となると、牧師が神になり、問題が発生する。


 ディボーションをすると心が探られる。弟子訓練は、イエスが天に挙げられる前に、すべての国民を私の弟子にしなさいという命令に聖書的根拠を置く。弟子訓練をすることは主の命令に忠実になることである。誘惑は常にある。たとえそれが主の命令だとしても、自分は忠実にやっている、と満足する時、満足を求める時、弟子訓練の道からそれることになる。自分はよくやっているのだと人から認められたいと考える時、弟子訓練の道からそれることになる。弟子訓練とは、訓練を受ける信徒を愛し、彼らがキリストが願う弟子になることに仕えることである。自分が弟子となり弟子としての模範を訓練生に示すことが大切であり、それができているなら、感謝すればよい。感謝以外に、自分の働きに満足する心があると、それは、訓練生に対する不満になりかねない。訓練生が、自分はよくやっているという牧師の満足に仕えることになる。


 牧師がキリストの弟子としての模範を示していくなら、キリストの弟子となることを願う訓練生は、牧師に倣うだろう。


 イエスの弟子も、キリストが王座に就く時、その両脇に座らせてほしいと願った。イエスは上に立つ者は、皆に仕える者、皆のしもべになりなさいと教えた。「仕える者」「しもべ」になるとは、キリストに倣う者となり、よき模範を示すことである。これすら十分にできるとは限らないが、このことに誠実に努力し、信徒にまねをしたいと思ってもらえるよい模範となれるなら、そのことを喜び、感謝し、私はすべきことをしたに過ぎませんと主に語るのが弟子訓練をする牧師の役割である。僕はそう考えている。これが僕の原点。


 この原点に立ち帰るように心が探られることがしばしばある。