クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 僕が無念に思うことがある。


1981年の春に僕は牧師になった。以来28年が過ぎたことになる。聖書をどのように読むのか、信仰に生きるとはどういうことかがわからなかった時期が続いた。牧師になって15年が過ぎ、ディボーションを学ぶに及んで、信仰とは何かがわかり、信仰に生きることが何かがわかった。そして聖書の読み方もわかった。それを知らずに牧師として15年働いたことは、空白の15年を過ごしたように思えて無念に思う気持ちがある。


 信仰とは、み言葉を実践して生きることである。どうしたらそれが実現できるのか、信徒の時も、牧師になってからも、誰からも教えてもらえなかった。自分で考えればよいのに、という突っ込みが入るわけだが、信仰とは何かという問題意識はなかった。


 我々は何を信じるのか。聖書が告げる言葉を神の言葉と信じるのである。我々の信仰は、聖書が神の言葉であるという信仰である。ここからすべてが始まる。神が創造主であることも、キリストが贖い主であることも、皆、聖書に書いてある。


 そして常識よりも、自分の経験よりも、人間の知恵よりも、様々な主義や思想よりも、それらに優先させて聖書の言葉を土台にして考え、自分の生き方を築くことである。そしてみ言葉に基づいて生きることである。信仰者は、しばしば聖書の言葉よりも自分の考え思いを優先する。それはアダム以来、高慢の罪とされているのに。

こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

 主の言葉は永遠に変わることがない、これが福音である。


 僕は、自分を5時から牧師と言うことがある。イエスのたとえで、夕方からぶどう園で働いた労働者に自分をたとえているのだ。信仰者としての実質的な歩みの始まりは近年になってのこと。50才を過ぎてからだった。


 次女が牧師をしている。出産をしたので育児もしなければならない。育児と教会の奉仕、どちらを優先させるのか。もちろんどちらも大事であるが。答えは育児である。子育てに関する聖書の言葉を適用して子育てをすることである。これは決して私的なことではない。これは霊的な奉仕であり、神の召しである。教会員が出産し子育てをする時、み言葉に立脚した子育てを導くことができるように、模範となることができるように、み言葉に基づいて子育てをする、これは神の召しである。そんなことを妻が娘にメールで送った。


 僕と妻は、信仰者として子育てをしたつもりである。しかし、子育てに関するみ言葉を自覚的に適用したかと言えば、そうではない。信仰的、聖書的であろうとは心がけた。だから、娘には、み言葉にたった子育てをして、神の召しに答えてもらいたいと願う。