クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.2.15)
聖書 エフェソ 4:7〜16 5:16〜26 キリストの体なる教会


そもそも「教会」って何でしょうか。聖書には、不思議なことが書いてありますね。

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1:23)。

 教会はキリストの体だというのです。そして神が充ち満ちているというのです。キリストが満ちあふれているのがキリストの体であり教会だというのです。


1.キリストが施主・建築主 


 今日の聖書の12節に「キリストの体を造り上げてゆき」とあります。造らせるのはキリストです。キリストの体は、造り上げられるもの、建設されるものであることがわかります。

 キリストの体である教会の建築主は誰でしょうか。設計図は誰が描くのでしょうか。どのようにして建設されるのでしょうか。


 建築主は、イエス・キリストです。イエスが弟子たちに、私を誰だと思うか、と尋ねたことがあります。弟子のペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。その時、イエスはこう言いました。

「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)。

 イエスが施主、建築主です。教会というのはイエスが建設されるものなのです。金沢元町教会の会堂は、金沢元町教会が施主となって建設しました。金沢元町教会という教会を建設なさるのはイエスです。キリストの体なる教会の建築主、施主はイエス・キリストであることをまず覚えてください。


2.牧師は建設請負責任者 


イエス・キリストは、ご自分の体である教会を建設するために、責任者を選びます。

11節。「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」。

 使徒とか預言者は、今はいないと考えてよいです。現代、キリストが選ばれるのは牧者です。つまり牧師です。牧師は教師とも呼ばれます。牧師は、キリストに選ばれ、教会に遣わされます。


 私もこの教会に遣わされ、牧師就任式が行われました。その式の中で、誓約が行われます。「あなたがこの教会に遣わされたのは、キリストの召しによると信じますか?」。これに対して「信じます」と返事をします。キリストの体なる教会の建設の責任者として、キリストによって任命された人、それが牧師です。


 では牧師は、どのようにして建設をするのでしょうか。まず、建設作業員を育てることから始まります。

12節。「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」。

 ここに出てくる「聖なる者たち」とは、教会に集う信仰者のことです。教団の信仰告白には、

「教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集いなり」。

 ここで「恵みにより召されたる者の集い」が教会だとあります。神の恵みによって救われ教会に導かれた人、つまり教会員である信仰者、この人たちが聖なる者です。聖なる者、つまり教会員は、キリストの体を建設する建設作業員です。


 牧師の仕事は、12節「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」にあるように、建設作業員が、建設作業できるように整える働きをします。イエス・キリストは、教会員に建設作業員として仕事ができるようになるために、牧師を選ばれたわけです。


3.教会員は、建設作業員 


 教会員が建設作業員として整えられるとはどういうことを言うのでしょうか。

13節。「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」。

 イエス・キリストはどんな人なのか。救いのために何をしてくださったのか。イエス・キリストに対する知識を十分持つことが大切です。この知識を共有することが、キリストの体である教会の建設には必要です。イエス・キリストに対する知識は、建設のためのいわば技術です。皆が一つとなって同じ技術を持たなければ、建設作業は進みません。


 イエス・キリストに対する信仰があります。信じる者として具体的に生きると言うことです。神を愛して生きる、人を愛して生きると言うことです。「愛する」ことも、建設のためのいわば技術です。この技術も共有することが大切です。イエス・キリストに対する知識と信仰において一致し、しかも成熟することが建設のためには必要となっていきます。

イエス・キリストが最後に弟子たちに言い残した教えがあります。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19〜20)。

 イエスが命じたことを守る人、つまり弟子を作りなさいとイエスは最後に言い残しました。この弟子こそ、キリストの体なる教会を建設する建設作業員です。キリストに対する信仰と知識において成長するとは、キリストの教えを守ることということもできます。牧師は、建設作業員を育てる働きをします。つまりはキリストの弟子を育てる働きをします。


 建設作業員が育つに従って、キリストの体である教会の建設が進んでいきます。彼らは成熟した人に育っていきます。彼らはキリストに似た人に育っていきます。


 整えられるとどうなるのでしょうか。

14節。「わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく」。

 未熟な者ではなくなります。間違った教えに動揺しなくなります。悪口、噂、批判などに動揺しなくなります。

15節。「愛に根ざして真理を語」るようになります。29節にはこうあります。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」。

 他の人の信仰を励ますような言葉を語るわけですね。そしてますます、キリストに似た者となるべく成長を続けます。キリストの体を造り上げることとなります。


4.教会の設計図〜たとえとしての人体 


 そこでキリストの体の設計図です。はっきりとした詳細な設計図はありません。しかしモデルがあります。人間の体です。


人間の体には、骨、間接、筋肉、臓器、皮膚、口、鼻など、様々な部分があります。これらを適切に組み立て、体として機能するようにするわけです。これらの「部分」に相当する人が教会員、建設作業者です。


 キリストの体である教会を建設するというのは、建設材料をよそから持ってきて組み立てるのではありません。自らを建設材料として差し出し、組み立てられていくことなのです。

「私は口です。口として働きます」って自分を差し出すのです。「私は愛の筋肉です。私は骨と骨を結ぶ働きをします」と言って自分を差し出すのです。そして他の部分をよく見て、組み合わされていくように動くのです。

16節。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」。

 人間の体には、骨があり、筋肉があり、臓器があります。横隔膜、神経、皮膚、色んな部分があります。骨を骨が間接によって結び合わされ、筋肉によって結びあわされて、その動きがコントロールされます。また体の臓器も骨や筋肉に結びつけられ、その場所を保ち、その働きをします。


 つまり体の各部分とそれらを結びあわせるものが存在し、体が活動します。建設作業員である教会員は、自らを部分として差し出します。建設作業のリーダーは、それらの部品を結びあわせる筋肉、間接のような働きをしてキリストの体となるようにします。


 キリストの体の明確で詳細な設計図はありません。教会員が部分として自分を差し出し、信徒リーダが教会員を結びあわせて教会の働きを担うようにする仕組み、それが設計図のようなものです。それは人間の体にたとえられるわけです。

 体は普通見えます。私という人間そのものは見えませんが、私の体は見えます。私の体の動きが、私という人間を表現しています。


 キリストの体である教会は、キリストを表現します。一番に表現されるものは、愛です。キリストの体の各部分が一つとなって働くには愛が必要だからです。どの程度愛が見えるか、それがキリストの体の成熟度を示しています。

 キリストの体は、それでは何をするのでしょうか。

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9:35)。

 この聖書の言葉は、イエスの働きが福音を宣べ伝える伝道、会堂で教える教育、人々の病気を癒す奉仕の働きとなっています。キリストの体である教会の働きは、昔から、伝道、教育、奉仕と言われてきました。


 キリストの体である教会は、これらの働きを行います。そのために牧師は、教会員を育て、教会員のリーダーを育てます。リーダーを中心として、教会員がこれらの働きを担うのです。これがキリストの体である教会です。


 教会は、いつも建設途上にあります。このような教会を築くために、キリストは牧師を立て、信じる者たちを教会に集めるのです。このような教会を建設する、それが救われて生きると言うことです。


 私たちの日常生活も、それをどう生きるかにより。キリストの体なる教会を建設することにつながります。だから私たちはみ言葉に立って、御言葉によって生きるのです。