クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 主の再臨を待ち望む

本日のメッセージ(2009.3.29)
聖書 テサロニケ二1:3〜12 主の再臨を待ち望む


 皆さんは、神の国に迎えられる時、神様からどんな言葉をかけられると期待しますか。日本基督教団信仰告白には、

「主の再び来たりたまふを待ち望む」

とあります。私たちはなぜ、キリストの再臨を待ち望むのか、「キリストの再臨を待ち望む」との告白が、素晴らしい告白なのか、聖書に聞きましょう。それは、キリストの再臨の後、私たちは神様から「忠実な僕。よくやった」とほめられ、神の国に迎えられるからです。


1.テサロニケの信徒への励まし 


 パウロはまず、テサロニケ教会の人々の信仰が大いに成長していることを感謝しています。「感謝せずにはいられません」。パウロの喜びが伝わってきます。パウロが信仰の成長ということをどう考えているのか、興味深いです。

「お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです」(3節)。

パウロは、信仰者一人びとりが、互いに愛し合っていることに目を留めています。互いに愛し合う愛が豊かになっている、それを信仰の成長と見ているのです。<へ〜、なるほど>と思います。

 信仰の成長とは、聖書の知識が増えることではなく、神学的な知識が増えることでもなく、信仰が揺れ動かないことでもない、のです。互いに愛し合う、そこに信仰の成長をパウロは見ています。信仰者が互いに愛し合うことが盛んとなるにつれ、信仰者は成長し、教会は愛の教会となっていくのです。パウロはテサロニケ教会がそうなっていることを喜び、神に感謝しているのです。


 テサロニケ教会はどうして、愛に満ちた教会になっていったのでしょうか。教会が迫害と苦難の中にあることが一つの要因です。


 迫害と苦難に直面しているということは、教会は困難な状況にあるということです。困難な教会はどうなるかというと、一致して困難に立ち向かうか、何もしないで崩壊するか、どちらかです。教会から、一人去り、二人去り、とだんだん人数が少なくなって、崩壊するか、断固困難に一致して立ち向かうか、です。困難に一つとなって取り組まなければ、早晩教会はつぶれるでしょう。


 テサロニケ教会は、一つとなったのです。何を目指して一つになったのでしょうか。なぜ一つになれたのでしょうか。私たちは一つとなっているのか、何によって一つとなれるのか、と思わされます。


 テサロニケ教会が一つになれたのは、使命に生きていたからです。福音を宣べ伝え、神様の教えに生きる信仰を貫こうとしたのです。迫害と苦難があるので、互いに力を合わせ、励まし合ったのです。教えに生きるように励まし合い、祈り合ったのです。


 迫害と苦難という困難な状況にあって、信仰者がばらばらだったら、信仰を貫くことは難しいでしょう。信仰を捨てるよう追い込まれます。教会の活動を続けることは難しいでしょう。テサロニケ教会の人たちは、信仰と忍耐を示しました。彼らは神の支えを信じ、神の導きを信じ、互いに励まし合って、困難な状況を生きたのです。石を投げられたり、嫌がらせを受けたり、捕まって脅されても、信仰を貫いたのです。目立たないように集い、励まし合って、伝道したのです。このように信仰と忍耐に生きているテサロニケ教会をパウロは誇りとしました。

「あなたがたは神の国にふさわしい」(5節)。

 そしてパウロは、テサロニケ教会の信仰者たちは、神の国にふさわしい、と励ましています。迫害の中にあって、苦難に負けずに福音を宣べ伝え、信仰に生きているのですから、神の国にふさわしいと言うべきです。


 さらに神は正しい方で正しいことを行うと宣言します。神は人をその行いに応じて報いを与えるのです。この世は、不公平に見えます。神が世界を支配しているとは見えない現実もあります。善人が栄え、悪人が滅びるとは限らないのです。神などいるはずがない、という人もいます。

「主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます」(7節)。

 キリストが再び来られる時、神は、人をその行いに応じて報いを与えるのです。

「あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い」(6節)

とあります。

「神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります」(8節)。

 キリストが再臨されることによって神の裁きが行われ、すべての決着がつくのです。この世に生きている時、悪しき者がその繁栄の内に死んだとしても、永遠の破滅が待っているのです。そして信仰者は祝福されるのです。


 こうしてパウロは、信仰者の望みがキリストの再臨にあることを告げます。

「それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです」(12節)。

 キリストが再臨されるこの世の終わりの時、すべての信仰者からキリストが崇められ、信仰者が、キリストによって誉れを受けるのです。キリストからの誉れ、それは、「忠実な僕。よくやった」とおほめの言葉をいただくことです。このようにパウロは、信仰者の希望を告げて励ますのです。


2.生きるとは旅をすること 


 旧約聖書出エジプト記を読むと、生きるとは、目的を目指して旅をすることだとわかります。エジプトにおける奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、約束の地を目指して旅をしました。イスラエルの民がエジプトにおいて何十年という奴隷の生活、辛く苦しい生活を送りました。


 神が彼らを解放し、自由に生きることができる土地へ導くと約束しました。奴隷の地であるエジプトから、自由に生きることができる約束の土地イスラエルは旅をしました。言うまでもなく、そのたびには困難が伴いました。神は必ず約束の地へ導いて下さるとの信仰を抱きながら、困難を忍耐し、彼らは約束の地を目指して旅をしました。


 私たちにとって、信仰に生きるとは、神の国を目指す旅をすることです。教会という舟は、信仰者を乗せて、歴史を旅し、神の国を目指しているのです。そして、教会は、神の国を目指して生きるのです。


 教会という舟は、信仰者を乗せて、歴史を旅し、神の国を目指します。教会という舟、それは言い換えると、互いに愛し合う信仰者の群れのことです。キリストを主と仰ぎ、互いに愛し合う信仰者の群れ、信仰の成長した群れ、それが教会です。この教会を築くこと、この教会の一員として生きること、それが神の国を目指すということです。


 互いに愛し合う信仰者の群れの一員として生きること、これが信仰者の光栄です。信仰者の誉れです。これが「忠実な良い僕だ。よくやった」(マタイ25:21,23)との賞賛を神からいただく歩みです。神は「忠実な良い僕だ。よくやった」と言って、信仰者を神の国へ迎えて下さるのです。これこそ、最高の誉れです。


3.キリストの再臨を待ち望む 


 私たちもまた主の再臨を待ち望みます。神の国への到着を待ち望みます。神の国に到着する時、私たちは神から声をかけられるのです。「忠実な良い僕だ。よくやった」(マタイ25:21,23)。


 パウロは言います。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(テモテ二4:7〜8)。

 パウロは義の冠をいただく誉れを述べています。今日の聖書では、こうあります。「それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです」(12節)。

 誰だってほめられることはうれしいものです。キリストから、神様から、誉れを受ける、それがキリストの再臨の後に起きることです。「忠実な僕だ、よくやった」。これこそ、最高の誉れです。マラソンに勝利した選手が、長い距離を走り終えて、優勝の冠をいただくように、私たちも神の国を目指して人生を走り通した後、「忠実な良い僕だ。よくやった」と神からの誉れ、義の冠をいただくのです。だから、私たちはキリストの再臨を待ち望むのです。

 神の国、天国とは、神が、キリストが支配されるところです。だから、キリストを崇め、キリストから誉れを受ける人こそ、神の国にふさわしく、神の国に迎えられる喜びが大きいのです。