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隠退牧師 holala によるブログ

 創造主を信じる恵み

本日のメッセージ(2009.4.5)
聖書 創世記1:1〜3 創造主を信じる恵み

 創造主を信じる恵み、それは力強く、喜びをもって、確かな目的を与えられて生きることができる、ことです。


1.創造物語の受けとめ方 

 聖書の創造物語をどう受けとめるのか。一つの課題です。進化論は、人間は、進化の結果として発生したと述べます。命を持つ、小さな一個の細胞が発生し、突然変異によってその細胞が進化して様々な生物が発生し、人類も発生したと進化論は唱えます。


 しかし聖書は明確に、人間は神によって創造されたと述べます。どちらが本当か、子供たちは学校で進化論を教えられ、戸惑うわけです。


 この問題に対して信仰者がとる代表的な二つの立場を紹介します。二つの立場は、共に聖書は誤りのない神の言葉であると信じ、聖書の内容は、信仰と救いに関して誤りがないと信じます。これは共通しています。

 一つの立場は、聖書は、科学的にも歴史的にも誤りがないと信じます。この宇宙、世界がどのようにしてできたのかを、聖書は科学的にも説明しているとする立場です。アメリカでは、こう信じる人々が、学校で進化論を教えてはならないと裁判を起こしたことがあります。


 この立場に立った人が、聖書にはアダムからイエス・キリストまでの系図があるので、それを利用して天地創造の年代を計算しました。神が天地創造をしたのは,紀元前4004年10月22日だと言ったそうです。


 もう一つの立場は、聖書は科学的真理、歴史的真理を主張する書物ではないとする立場です。聖書は、神による宇宙・万物の創造を書いていますが、それは科学的にも事実だとは主張しないのです。アダムも歴史上の実在の人物であるとは主張はしません。


 聖書の創造物語は神への信仰の表現として書かれたものと考えます。神が秩序をもって計画的にこの世界を造られたのだ、と創造主への信仰を表現したものと考えます。私は、後者の立場に立ちます。


 この世界も、人間も、神によって創造されたと信じますが、聖書に書かれているとおりに創造されたかどうかは、どちらでもいいのです。聖書の創造物語に、むしろ信仰に関わる真理、意味を見出そうとします。


 次に聖書の冒頭になぜ、世界の創造物語が書かれているのかも考えます。聖書の最初に世界の創造物語があるのは当然と私たちは考えます。しかし、イスラエル民族の神体験は、出エジプトという奴隷状態からの解放でした。イスラエルは、神を解放者として経験しました。奴隷の地、エジプトを脱出して約束の地で、自由な人間としてイスラエル民族は生きることになりました。これがイスラエルの神との最初の出会いと言ってもよいのです。
彼らは過越の祭りというお祝いを家庭で、毎年行います。その時、子供は父親に、なぜこの祭りを行うのかを質問します。父は、神は、私たちの先祖を奴隷の状態から救い出してくれたのだと話をします。神はイスラエルをエジプトから解放し救い出した神であると教えられるのです。


 その後のイスラエルの歴史の中で、イスラエルは外国の侵略と支配を何度も経験します。やがて国家が滅びるという経験もしました。神はイスラエルを外国の侵略から救えなかったと見ることもできますが、神はイスラエルの不信仰を正すために、外国にイスラエルを侵略させたと信じるのです。つまり神は、イスラエルを裁く手段として、外国を用いたのです。


 神は歴史を動かすことができるのです。そして神は、イスラエルだけの神ではなく、全世界の神で、歴史を導く神なのだと信じるのです。神は、歴史を導くだけではなく、そもそもこの世界を創造した神であるという信仰に導かれ、世界の創造物語が書かれたのです。


 イスラエルの民は、外国の侵略、支配にあえぐ中で、歴史を導く神を信じ、さらには、世界を創造する神を信じるようになりました。苦難の中で、神を創造主と信じ、この神に信頼し続けたのです。創造の物語は、聖書の最初に書かれていますが、書かれた年代はむしろ遅いのです。


2.創造主を信じる幸い 

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(2節)。

「地は混沌であって」と訳されていますが、前の口語訳聖書では、「地は形なく、むなしく」と訳されています。新改訳聖書では、「地は形がなく、何もなかった」訳されています。「形がない」と訳された言葉は、荒廃していると訳されます。これは創造前の秩序のない状態を意味します。また、神の裁きによってイスラエルの住む地が荒廃した時の様子を表すと理解することができます。

 つまり、神は混沌とした状態を秩序ある素晴らし状態に造ることができるし、秩序ある状態に裁きを下して荒廃した状態にすることもできるのです。神は、創造し破壊することもできる神なのです。このような神信仰は、神の裁きを経験し、神の赦しの中で復興・再建を経験した信仰から生まれたものと言うことができます。
たとえば、イザヤは、このように預言します。

「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。/牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。/災いだ、罪を犯す国、咎の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。/何故、お前たちは背きを重ね/なおも打たれようとするのか/頭は病み、心臓は衰えているのに。/頭から足の裏まで、満足なところはない。打ち傷、鞭のあと、生傷は/ぬぐわれず、包まれず/油で和らげてもらえない。/お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ/田畑の実りは、お前たちの目の前で/異国の民が食い尽くし/異国の民に覆されて、荒廃している」(イザヤ1:2〜7)。

特に7節。「お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ/田畑の実りは、お前たちの目の前で/異国の民が食い尽くし/異国の民に覆されて、荒廃している」。神はこのようにイスラエルを裁き、イスラエルの地を荒廃した地にしてしまうのです。

 しかし、神は言われます。「 シオンは裁きをとおして贖われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖われる」(1:27)。こんな喜ばしい回復も語られます。

「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ」(イザヤ35章)。

 
 神はイスラエルを再興する神、再創造する神なのです。どのような混乱、荒廃の中からも、神は回復をもたらすことができる方です。これは創造物語の強いメッセージです。


 神が世界を創造したという信仰は、イスラエルの苦難の中から生まれた信仰です。創造物語は、イスラエルの民にとって励ましとなる信仰の物語なのです。創造物語は、世界を創造し、歴史を導く彼らの神に対する信仰を言い表した物語なのです。だからといって、創造物語は作り話だというのではありません。神様が聖書に記録されることを認められた物語なのです。


3.人格神を持つ幸い 

「初めに、神は天地を創造された」(1節)。

「創造された」という動詞は、特別な言葉で、これが用いられる時、主語は必ず神です。「創造する」とは、活動することです。従って神は、生きて働く神となります。聖書の神は、遠くから眺めているだけの神ではなく、具体的に行動し出来事を起こす神なのです。聖書の神は、私たちの生活に介入し、行動される神です。


 また神は世界を遊びで造ったのではなく、もてあそぶために造ったのでもなく、ご自身の喜びのために造られました。しかも、価値あるよいものを造られたのです。神は世界を造り、「これを良しとした」と書かれています。私たちも、何かを造る場合、良いものを、できるだけ良いものを、最高のものを造ろうとします。神様もそのように考えたのです。
造るという意志を持ち、素晴らしいものを考えることのできる知性を持ち、造ったものを喜ぶ感情を持つ、それが神です。この聖書から、神が人格的な方であり、生きて働く神であることがわかります。さらには最高のものを造ることができる全能の神と考えることもできます。


 そして神は、創造の冠として、人間を造られます。人間は、神の最高の喜びとして造られたのです。私たちのことを価高く貴いものとして、愛してくださる神、それが創造主なる神です。

 さらに、世界を創造した神には目的があります。この目的を知るなら、生きる目的、生きる意味が明確になります。創造主なる神を信じる時、人は、本当の生きる目的、意味がわかります。私たちが神の目的を知って生きることができる、これは幸いなことです。
確かな人生を歩むことができるからです。創造主なる神を信じる幸いを与えられたことを感謝したいと思います。