クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.4.12)
聖書 ペトロ一1:3〜5 復活信仰の恵み


 復活を信じる、これは神の働きです。復活には希望があります。神の働きを受けて希望が与えられる、これが復活信仰の恵みです。


 『私にとって復活とは』(教団出版局)という本を最近読みました。色んなクリスチャンに復活理解を書いてもらっています。復活についてのいくつかの異なる理解を紹介されているでの興味深いです。教会が信じてきたのとは異なる復活理解も紹介されています。三浦光世さんは信徒として「最大の希望・復活」と題して文章を寄せています。使徒信条に基づいて信じるところを書いています。


1.疑問を述べる人々 


 中には、別な復活理解を示す人がいます。たとえばカトリックのネラン神父。日本に来て長く活躍している方です。

「キリストの復活は純然たる歴史上の出来事と見なすことはできない」
「私にとってキリストの復活は史実ではなく、真実である」。

 キリストの復活は歴史的な事実だとは考えないのです。しかしキリストの復活は真実、つまり本当だというのです。先週、創世記に基づいて、神が世界を創造主であることをお話ししました。あの創造物語は科学的に真理ではなく、歴史的な事実ではないと私は話しました。あの創造物語は史実ではなく真実だと私は話したことになります。話し方が似て言います。


 私とネラン神父が違うのは、創造物語には、証人である人間がいないことです。キリストの復活は、人間の証言に基づいて語られている点です。だから、私はキリストの復活は、教会が信じてきたように、歴史的事実と信じます。


 ネラン神父はどう語るのでしょうか。

「私はイエスは今、生きていると信じている」

と自分の信仰を告白します。イエスは今生きて、私たちと共におられると信じるというのです。そして「イエスが私たちと共におられるという状況の基礎は、復活に他ならない」。

 イエスは死んだが、私たちと共にいるという信仰を説明するために、復活を持ち出すわけです。大事なことは、イエスが今生きていることを信じることであると語ります。


 渡辺英俊牧師。この人は、日本基督教団の牧師です。彼は、弟子たちは幻を見たのだと言います。この牧師は、イエスは差別された人々を解放するために世に来られたという理解を持ちます。自分がイエスと同じく、差別をなくすために戦う時、「イエスが自分の内に生きていると感じる。それがキリストの復活である」と述べています。教会が信じてきた復活理解とはかなりかけ離れています。


 八木誠一氏。この本では、新約思想研究家と紹介されています。「復活があるかないかということよりも、それがどういうことかわからない」と述べています。どういうことかわからないことは、信じることができないと言います。


 たとえば復活したキリストの体は、身体(肉体)なのか、非身体的(非肉体的)で霊のような存在なのかわからない。イエスは、弟子たちがドアを閉めて集まっている家の中に入ります。壁を通過したかのごとく。肉体を持つ存在は壁を通過するのは不可能です。他方、復活後のイエスは自分が生きていることを示すために魚を食べたりします。復活したイエスの体は何なのかわからない、と語ります。


 信仰者の復活については、「霊の体」で復活するとパウロは書いています。霊の体で復活した私と、地上で生きた私が同一であることがどうしてわかるのか、それがわからない、と。そして何のことかわからないことを信じるのは、何を信じているのかわからないことと、どれほどの違いがあるだろうか、と述べます。何のことかわからないことは信じるに値しないというのです。


さらには

「復活は新生から語られるので、逆ではない。はっきり言えば、復活は新生の説明であり、新生からの推論である」。

 クリスチャンは、新しく生まれ変わったという自覚がある。その変化の説明として復活が持ち出されるという理解です。復活を自分流に解釈する人々の共通点が三つあります。

  • 復活を自分で理解できるように解釈する。
  • 信仰者に生じた変化・信仰を「復活」という言葉で説明する。
  • エスは今生きているという信仰。


2.復活の現実性 


 復活に関してはわからないことは確かにあります。しかし、イエス・キリストの復活は現実の出来事だったのです。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました}(コリント一15:3〜6)。

 キリストの復活には500人以上の証人がいます。キリストの復活は、キリストの十字架の死と共に最も大切なこととして宣べ伝えられてきたのです。十字架で死んだイエスが、弟子たちの前に現れたこと、幻ではなく、現実に現れたことを聖書は証言しているのです。

「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:24〜25)。

 イエス・キリストの復活を信じる人が義とされるとあります。

「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」(エフェソ1:19〜20))。

 キリストを死者の中から復活させた神の力がどれほど大きいものか悟るようにとパウロは祈っています。人間の思いを超える神の力を悟るようにとパウロは祈っているのです。このような神の大きな力が信仰者を新たに生まれさせるのです。キリストを復活させた神の大いなる力が、信仰者を新生させるのです。神を信じるとは、キリストを復活させた神を信じるということなのです。これがユダヤ教徒の違いということができます。キリストの復活がなければ、私たちの信仰は空しいのです。

「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(コリント一15:14)。

 死んだ人が生き返る、それは私たちの経験を超えたことです。単に生き返るのではなく、死ぬことのない者として生き返るのです。


 復活は人間の経験を超えたことですから、人間の理解を超えています。私たちは、聖霊の働きによって、イエスの復活を信じるのです。聖霊のおかげで、私たちはキリストの復活を信じることができるのです。キリストの復活を信じることができる、これは神の恵みです。


 そもそも、神を信じることも聖霊の働きです。聖書が告げる神は、人間が考え出すことができるような神ではありませんから。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(コリント一12:3)。


 キリストの復活を信じること、そして私たちが復活すること、私たちの身体がよみがえることを信じることができるのは神の恵み、聖霊の導きです。


3.恵みとしての復活信仰 

「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。

ここには、キリストの復活は、新生の希望、死を超える希望を与えます。キリストを復活させた神の力が、私たちを新しく作りかえるのです。新しく生まれる恵みに生きることができるのです。


「 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリント一15:20)。キリストが初穂であり、私たちは、キリストに続いて復活する希望が与えられます。


キリスト教の信仰の中核にあるのが、信仰によって義とされるという教えです。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ10:9)。キリストの復活は、私たちの救いの根拠です。