クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.4.19)
聖書 創世記 17:1〜8 全能の神を信じる恵み

全能の神を信じる、全能の神に賭ける、これは幸いなことです。


 水が半分入っているコップがあるとします。ある人は、水が半分しか入っていないと言います。別な人は、水が半分も入っていると言います。あなたは、このコップのことをどう表現しますか。


 私たちが人生を否定的に生きるのか、肯定的に生きるのかの分岐点がここにあります。つまり、ある人は水が半分しか入っていないと現実を否定的に見るのです。この人はなかなか幸せにはなれません。喜びや感謝も少ない人生を歩みます。物事を見る時、否定的要素を見つけるからです。


 別な人は、半分も入っていると現実を肯定的に見るのです。何事にも感謝や喜びを見出し、幸せな人生を送る可能性が大きいです。

  • 否定的な考え方しかできないあなたには、朗報があります。私たちが信じる神様は全能の神です。否定的に現実を見る必要はないのです。
  • 肯定的な考え方をするあなたにも、朗報があります。全能の神を信じる時、あなたはさらに確信を持って肯定的な人生を送ることができます。

1.全能の神を信じるように召されたアブラハム 


 アブラハムが75才の時でした。彼は神の声を聞きました。それがどうして神の声だとわかったのか、それはわかりません。しかし彼は、神の声と受けとめるべき声を聞いたのです。

「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」(創世記12:1〜2)。

 神は、アブラハムに、私が示す地に行きなさいと命じました。同時に、私はあなたを大いなる国民にすると約束しました。アブラハム夫妻には、子供がいませんでした。だから、彼の子孫が大いなる国民になるためには、まず、子供が生まれなければなりません。アブラハムは神の約束を信じ、神の命令に従いました。神の約束は、それに伴う命令に従わないと実現しないからです。


 それから何年かが過ぎました。アブラハムには子供は与えられませんでした。妻のサラは子供を産める年齢をとっくに過ぎています。ある時、神がアブラムに声をかけます。するとアブラハムは言います。

「あなたは私に、子孫を与えて下さいません」(創世記15:3)。

これはアブラハムの神に対する抗議です。しかし神は言うのです。

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(15:5)。

 アブラハムは、信じました。それからまた時が流れます。アブラハムの妻は夫に言います。

「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」。

 妻は夫に、召使いの女ハガルによって子供を得るように勧めます。ハガルはアブラハムの子を宿し、子が生まれます。イシュマエルと名付けられました。アブラハムはこれで、子が与えられ安心したと思います。さらに14年過ぎました。アブラハムが99才、妻が89才です。今日の聖書箇所です。神がアブラハムに現れ言います。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(17:2)。

 神は言うのです。「私は全能の神である」。さらに

「わたしはあなたの妻を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう」(17:16)。

 アブラハムはどうしたでしょう。アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳の妻に子供が産めるだろうか」。かし、アブラハムの妻は、子を産んだのです。神が最初に声をかけてから、25年後に、アブラハムの子供が与えられ、神の約束は実現の第一歩を記しました。この25年をどう考えるのか。アブラハムは知ったに違いありません。神は全能であると


2.危機にあって全能の神に信頼した人々 


 全能の神に信頼して窮地をしのいだ王の話があります。ユダの国にヨシャファトという王がいました。ある時、モアブ人とアンモン人が侵略してきました。しかも大軍です。勝ち目はありません。しかし降伏はできません。彼は神に助けを求めます。彼はユダのすべての人々に断食をするように呼びかけます。そして神殿の庭に沢山の人を集めます。そこで王は祈り神に助けを求めるのです。

「わたしたちの先祖の神、主よ。あなたは天にいます神、異邦人の国をすべて支配しておられる方ではありませんか。御手には力と勢いがあり、あなたに立ち向かうことのできる者はいません」(歴代誌下20:6)。

まず、神に対して、「あなたは全能の神である」と告白したのです。さらに続けて、

「わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません」。

 自分の無力さを告白し、神に助けを求めるのです。神殿の庭にいた一人の人に神の言葉が臨み、彼が語ります。

「ユダとエルサレムの人々よ、恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる」(20:17)。

 翌日、王は、戦いに出ます。神を賛美する者たちを集め、軍隊の先頭に配置し、敵に向かって進軍します。

「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに」と賛美しながら敵に向かうのです。全能の神の助けによる勝利を信じての進軍です。そして戦いに勝利します。忘れがたい話です。

 バビロン帝国にネブカドネツァルという王がいました。ユダヤ人の若者たちがこの王に仕えていました。王はある時、大きな金の像を造ります。自分の支配下にあるすべての人にこの像を拝むように命じます。ところがユダヤ人の若者たちは、拝もうとしません。像を拝むことはモーセ十戒で禁じられているからです。


 王は脅します。「拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」(ダニエル3:15)。若者は言います。

「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます」。

 神が全能の神であるとの信仰の告白です。この信仰に立ち、燃えさかる炉に入れられることを恐れないのです。そして金の像を拝まないのです。続けて言います。

「そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」。

 
 神が救ってくれなくても、金の像は拝まないという決意を述べました。王はカンカンに怒ります。若者たちは燃え盛る炉の中に投げ込まれます。


3.神に期待して生きるという恵み 


 私たちもまた全能の神を信じています。全能の神が生きて働かれます。あなたのために、私たちのために。

・全能の神が私たちと共にいて下さり、生きて働いて下さるのです。
・全能の神があなたと共にいて下さり、生きて働いて下さるのです。これは恵みです。

 祈ってもかなえられない、と失望することがあります。大切なこと、大事なことが、祈ってもかなえられないと失望も大きいです。もう祈らない、神の助けを求めない、そんな気持ちになります。


 アラビアンナイトという古い物語に「アラジンと魔法のランプ」という物語があります。
アラジンが魔法のランプを服の袖でこすると、大きな男が現れます。そして言います。「ご主人様、ご用は何でしょうか」。アラジンが、願い事を言うと、大男はその願いをかなえてくれます。どんな願いもかなえてくれるのです。私たちは全能の神に祈ります。助けを求めて祈ります。しかし神は、私たちの家来ではありません。


 神は、全能ですから、ご自分がこうしたいと思うことはどんなことでも行うことができます。この神に信頼して、期待して、私たちは何でも神に祈ることができます。神は私たちの家来ではありませんから、私たちの願いがすべて聞かれるとは限りません。祈りは、物事を自分の思い通りにする手段ではありません。私たちが祈る時、神の約束に基づいて願い求めることは賢いことです。


 世間の人も、困った時には苦しい時の神頼みをします。私たちは普段から、神に期待する生き方をしたいと思います。神は全能の方なのですから。

・これは難しい、無理だという言葉を口から出していませんか。
・ある時は、自分の力を誇り、ある時は無力さに落ち込む人。もう自分の力で生きるのはやめて神の力に頼りませんか。
・いくら神でもこれは、と考えないで、全能の神なんだから、と期待しませんか。
・あなたの神は小さすぎませんか。


 神が生きて働かれることを経験する、これが信仰の醍醐味です。

・「私は全能の神に頼る」、今日、決断しませんか。
・今日決断しないと、決断の日は来ないかも知れません。
・「私は全能の神に頼る」、今日、決断しませんか。


祈り


天の父、あなたを信じる信仰を与えられたことを感謝します。あなたに期待すること少なく、否定的な考えで生きてきたことを悔い改めます。聖書が語るように、神様を信頼し、肯定的な考えで生きて行きます。そして、あなたに期待し、あなたを賛美して歩みます。
天の父、祈りが聞かれず、失望した人々を顧みて下さい。あなたに期待することは、失望に終わることがないことを教えて下さい。あなたに期待して、生きて働かれる神様を信じた人々に、証しをして、人々を励ますように、導いて下さい。「全能の神を信じます」との告白を真実な告白として告白できるように私たちを顧みて下さい。イエス・キリストのみ名により祈ります。