クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 「赦せない人がいる」という人がいる。クリスチャンの中にも少なからずいる。私の妻もかつて赦せない人がいた。それは教会にいたずら電話をかけてきた人である。

「歴代牧師夫人の中で一番無能」

「盗みを働く牧師夫人」

 ひどい言葉を浴びせられた。繰り返される無言電話の中で、時々、ひどい言葉を投げかけられる。声の感じから、あの人ではないか、と推理することはできる。それは推測でしかない。ディボーションを始めて、み言葉を実行することを考えるようになって妻は苦しくなった。そして「赦します」と神の前に告白した。すると赦せない気持ちが消えたという体験をしている。

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない(マタイ6:14〜15)

 これはイエスの言葉である。赦せない思いを持つクリスチャンはこのイエスの言葉をどう思うのだろうか。どう受けとめるのだろうか。


 僕も何回か赦せない、という思いを抱いたことがあるが、神の前に赦しますと告白することによって赦せない思いで心が縛られることから自由にされている。


 〜〜〜〜〜以下は翌日の追加の文章〜〜〜〜〜

 こうは書いたのだが、僕が受けた傷は浅い。傷の浅い者の語る文章になってしまったようだ。


『赦しの神学と人間学』(森本あんり、国際基督教大学学報 『人文科学研究』VOL39より)という論文を読んで、考えさせられた。この中で、イエスは赦すことを命じていると語る。つい牧師は、神に赦されているから、その応答として他者を赦すということを語る。森本氏は、それは通俗的な解釈と言う。イエスは赦すことを命じているという。人間の赦しこそ、神の赦しの条件であると。マタイ6章の主の祈りの後の赦しの教えを読む限り、神の赦しが土台という解釈は生まれない。