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隠退牧師 holala によるブログ

 我らの主イエスを信ず

本日のメッセージ(2009.5.3)
聖書 コリント一12:1〜3 我らの主イエスを信ず


 聖書を読んでいると「主」という言葉が繰り返し出てきます。


 「主」の字に人という字をつなげると「主人」となります。妻が、夫のことを主人と呼ぶことがよくあります。なぜ夫のことを主人というのでしょうか。夫は一家の主、家の責任者という意味が込められています。主人である夫は、生活費を稼ぎ、家族を養い守り、家庭を治めます。妻も子も、主人に頼り、その言うことに従います。主人は頼られる存在です。責任を持って頼ってくる人を守る存在です。


 主人という言葉は男性に依存するというイメージがあると言って、これを使わない女性もおられます。


 聖書では、神に対して、「主」という言葉を当てはめます。「主なる神」。「主イエス」。


1.イエス・キリストを信じる 


 新約聖書を読むと、イエスが救い主であると書かれています。まずイエスは、十字架で死にました。十字架の死は贖いのための死です。人間を罪に対する神の裁きから救う方、救い主であると聖書は述べています。


 さらには、人間に罪の支配から解放し、罪から自由にして下さるかたです。イエス・キリストは、名字と名前ということではありません。これは「イエスはキリスト(救い主)である」という意味なのです。イエス・キリストを信じるとは、イエスが救い主であると信じるという意味になります。


 さらにイエス・キリストを「主」という時、それはイエス・キリストは神であると告白することになります。主というのは神に当てはめる呼び名だからです。イエスは人間でしたが、人となられた神でもある、と教会は信じてきました。今日の聖書、3節にこう書かれています。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。


 笑い話みたいな話があります。ある牧師が、教会学校に来ている中学生に質問したそうです。「イエス・キリストって誰ですか」。「救い主です」と中学生は答えました。「君にとってイエス・キリストはどんな人?」「わかりません」。


 この中学生は、教会学校に来ていて、イエス・キリストが十字架で死に、人類の救い主となったことは何回も聞いていました。だから、イエス・キリストは、誰ですかと問われた時、救い主と答えたのです。知識としては、イエス・キリストが救い主だと知ってはいるのです。


 しかし、イエスが自分とどんな関係にあるのか、まだわかっていなかったのです。聖霊に導かれる時、自分とイエスとの関わりがわかるのです。自分が罪人であり、救い主イエス・キリストを必要とすることがわかるのです。聖霊の導き・助けを求めることは大切なことです。


 私は、20代の後半で教会に行きましたが、罪がわからず、キリストが救い主であることがわからない日々が続きました。ある時、喫煙が、この体を傷つけていること、この体は神様から与えられたものであると知った時、自分の罪を知りました。そしてイエスが、私の救い主であることを知りました。さらに聖霊に導かれて、私はイエスが主であると知りました。


2.イエスを主と信じる 


 あらためて、聖霊によらなければ、イエスは主であると告白できないことを思います。なぜなら、「主」という言葉は、自分との関係を示す言葉だからです。イエスを主と呼ぶということは、自分はイエスの僕だとの認識を伴うからです。あなたにはイエスとどんな関わりがありますか。

あなたの人生の主人公は誰ですか。

 たいていの人は、人生の主人公は自分です。自分の幸せを第一として、人々は生きています。イエスを主とする人は、自分の幸せを第一にする人ではありません。人生の主人公がイエス・キリストだからです。主イエスの御心を第一とします。自分を第一とする人生から、主イエスを第一とする人生へと方向転換をするのです。


 さらに言えば、イエス・キリストを主とすることは、イエス・キリストを愛することです。イエス・キリストを愛し、愛するイエス・キリストを第一にして生きるのです。


 自分第一からイエスを第一とする生き方への転換、さらにはイエスを愛し、イエスとの関わりに生きる信仰、それは聖霊の導きなしにはあり得ない、と今日の聖書は語ります。そして私たちは、イエスは主であると告白する群れなのです。イエスを愛し、イエスを主として生きる、それは聖霊の導きによって可能となることです。

神の戒めで一番大切な教えは、何だと思いますか。

 神を愛することです。なぜ、神を愛することが一番大切な戒めなのでしょうか。信仰とは、神との関わりに生きることだからです。罪の本質は、神との関わりに生きないことです。不道徳な人が罪人なのではありません。神なしに生きようとすること、神との関わりなしに生きようとすることが罪の本質です。


 聖書は告げます。まず神があなたを愛した、と。私たちは神に愛されているから、その愛に応えて神を愛します。イエス・キリストが私たちを愛されたので、私たちもイエスを愛します。ではイエスはどのように愛されたのでしょうか。


 イエスは、生きている時、罪は犯さず、神のみ心に忠実に歩みました。イエスは人はいかに生きるべきかの模範を示し、さらに命を犠牲にして私たちを救いました。模範と犠牲にイエスの愛を見ます。そして私たちもイエスを愛し、イエスに従おうとするのです。これは聖霊の働きによります。皆さんは、イエスを愛しているという自覚をもっておられますか。

私たちが神を愛し、イエスを愛することを妨げるものがあります。それは神への恨みです。

人は自分の人生がうまくいかないことに対して神への恨みを無意識に持っていることが多いのです。無条件に神を喜べないのです。自分の能力・容姿・親に対する不満、受験などの失敗、大事な願いがかなえられない、試練との直面など、自分の人生になぜ、こんなことが起きるのかと言った疑問があると、神を喜べず、愛せないのです。神が私を愛しているなら、なぜこんなことが起きるの、と考え神に抗議するのです。

この問題は、私たちが聖書に向き合う時、解決に導かれます。私は、人間に死があるので、創造主なる神を愛することができませんでした。子供の私は、その恐れで心が震えおののき、私の心は傷つきました。創造主がいるから命を与えられてはいますが、最後に死があり、死を恐れる思いがあるので、神を喜べませんでした。神を受け入れる気持ちが与えられると、神を喜び、神を愛することができるようになりました。イエスを愛するようになりました。


3.イエスを主と信じて生きる 


「主」とは、主人を意味します。イエスは私の主人です。私はこの方に信頼し、すべてをゆだねることができます。イエスを主と仰ぎ、イエスに信頼して生きる人は、まず考え方を転換します。イエスが考えるように考え、イエスが感じるように感じ、イエスがするように行動するのです。


多くの人の生き方の基準はこうです。即ちみんながそうしているから、私は今までそうしてきたから、そうすることが筋が通っているように思えるから、そうすることが正しいように感じられるから。


エスを主とする人々は違います。基準は、聖書です。「聖書はどういっているだろうか」と言って、考え始めます。聖書に従う生き方が最善であると信じ、それに従い、結果は神にゆだねるのです。人間の思考能力、知恵には限界があります。それに加えて、人の考えは、時に変わるのです。


聖書の言葉は真理です。この真理に信頼し、賭けるのです。「御父は、御心のままに、真理の言葉によって私たちを生んで下さいました」(ヤコブ1:18)。私たちが真理の言葉、聖書の言葉によって生きる時、私たちは生まれ変わるのです。そして人は変わるために生きているのです。


エスを主とする人は、イエスの教え、神の言葉を愛します。朝ごとに新しく、御言葉を待ち望みます。イエスを愛しているからです。自分が愛している人の言葉を聞くことは何と楽しいことでしょう。だから、聖書を読み親しみ、思い巡らし、自分の生活に適用します。イエスの教えは、私たちを祝福する教えだからです。


エスは教えました。賢い人は、私の言葉を聞いて行う人だと。

  • 聖書の教えを適用する時、私たちは変化します。キリストに似た者へと変えられます。
  • 聖書の教えを適用する時、イエスを愛していることが証明されます。イエスに従うことが喜びとなります。
  • 聖書のみ言葉に従うことを通して、私たちは、イエスを主としていることを証明するのです。


エスはあなたの主です。イエスを愛することに何か困難がありますか。あるならその理由に向き合って下さい。


牧師として何をしたらよいのか、長い間悩んできました。それはイエスの教えの中に、聖書の中にありました。二つの御言葉が私を導きます。


「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」。今は、確信を持って歩めることが感謝です。


祈り

天の父なる神様、
エスが主であると告白できる幸いを感謝します。聖霊様の導きによりこの告白へと導かれたことを感謝します。

天の父、イエスを主とする信仰を求めている人たちを導いて下さい。聖霊によらなければ告白できないと御言葉にありますから、聖霊の導きを与えて下さい。

天の父、イエスを主とする信仰を充実したいと願っている人たちを導いて下さい。聖霊の導きを与えて下さい。聖書に親しみ、思い巡らし、み言葉に基づいて考え、行動できるように導いて下さい。

天の父、イエス様が私たちを愛しておられますから、私たちもイエスを愛することができるように導いて下さい。

信仰とは、神様との交わりです。神様と関わりをもって生きることと教えて下さい。関わりを持って生きる時に必要とされるのが愛です。神様を愛する愛が、聖霊によって私たちの心に注がれていることを信じます。

心に注がれた愛が御言葉によって姿を現し、心から神様を、イエスを愛することができるように導いて下さい。

主イエスを私の主として仰ぎ、イエス様に心から敬い、お従いできるようにして下さい。
エスを愛する心から喜んでイエスを愛することができるように導いて下さい。

イエス・キリストのみ名により祈ります。