本日のメッセージ(2009.5.3)
聖書 ルカ1:26〜38 神による誕生を信じる
処女降誕という言葉があります。これはイエスの誕生を言い表す言葉です。イエスは男性との関係をもっていない女性マリヤから生まれたというのです。
人間は哺乳類に属し、哺乳類は有性生殖といって、雄と雌、男性と女性の関与によって子供が生まれます。
女性が妊娠した場合、生まれてくる子供の性別はどのようにして決定されるか、ご存じですか。これには性染色体というものが関与します。女性は、Xという性染色体を二つ持っており、男性は、XとYという二つの性染色体を持っています。子供は男性と女性から一つずつ性染色体をもらいます。子供は、女性からXという性染色体をもらい、男性から、XまたはYの性染色体を受け取ります。結果、XとXという性染色体を持てば生まれてくる子供は女性となり、XとYを持てば男の子が生まれます。
人間を含めた哺乳類は、有性生殖といって、雄と雌が交尾する、男と女が関係を持つことによって子が生まれる仕組みになっています。マリアは男性の関与なしに妊娠したわけで、科学的にはあり得ないことが起きたことになります。
マリアは聖霊によって身ごもったと聖書は語ります。処女降誕という事実が語っている真理に耳を傾けましょう。
その真理の
1.聖書の権威を認め、信じる
聖書には奇跡物語が色々あり、信じられないという人がいます。奇跡物語の典型が、イエスに関わるものです。処女降誕と復活です。
まずここで大切なことは聖書の権威ということです。私たちは物事を判断する基準を持っています。私たちは何かを判断する時、その基準に従います。信仰を持つ人の基準は聖書です。
「聖書は信仰と生活との誤りなき規範なり」
と日本基督教団信仰告白は述べています。私たちは信仰と生活、つまり信仰と人間の生き方については、聖書を基準として考える者だ、と告白しているわけです。
ところが人間は、自分の考えを基準にして物事を考える傾向があります。自分で考えることは勿論大切なことです。時に、自分の考えと聖書が語ることが違うことがあります。その時、私たちは、どちらを優先すべきでしょうか。どちらを選択すべきでしょうか。
イエスは処女から生まれたと聖書は告げます。私たちの理性は、そんなことはあり得ないと言います。聖書が本当なのか、理性が本当なのか。どちらを採用すべきなのでしょうか。
私たちは聖書を採用します。聖霊の導きを受ける人は、聖書を採用するようになるのです。聖書が物事を考える時の基準だからです。しかも、それが合理的だからです。合理的であることについては、後で述べます。
私たちは、常に、聖書を基準にして考え、行動するのです。それがキリストを信じる人の生き方です。だから聖書を読みます。聖書を基準にして物事を考えようとする人は、必然的に聖書を読むようになります。聖書を読まないと、聖書を基準にする考え方を身につけ、行動することができないからです。
自分の考えで生きる人は聖書を読む必要はありません。中には、聖書の教えも有益だから、自分の考えに取り入れようとする人がいます。その人も聖書を読みます。しかし私たちが聖書を読む理由は、聖書を基準にして物事を考え、聖書を土台として生きていきたいからです。
私たちは信仰者の義務として聖書を読むわけではありません。聖書こそ真理です。聖書が告げる真理に基づいて生きていきたいから聖書を読むのです。信仰に生きるとは、聖書の告げる真理に生きることです。
2.処女降誕が意味すること
処女降誕を信じるということは、先ほども言いましたが、実は合理的なことなのです。今日の聖書の34節でマリアは言っています。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。マリアも、処女降誕なんてあり得ないと実は言いました。
それに対して、天使が次のように言います。35節。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
神には「できないことはない」のです。
神を信じるとは、「できないことのない」神を信じるということです。
全能の神を信じると言うことです。全能の神を信じるなら、処女降誕はあり得ると考えるのが合理的です。全能の神を信じるが、処女降誕はあり得ないというのは、矛盾です。神は全能の神であり、神ご自身がしようと思うことは何でもできるのです。全能の神がマリアを通して、救い主を誕生させようとしたのです。神はそう計画したのです。マリアは信じ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えています。マリアは信じました。マリアは神を信じる者だったことがわかります。私たちもまた全能の神を信じます。
全能の神を信じるなら、処女降誕が起きても不思議ではないのです。私たちは、神の力がどれほどのものと信じているのか、問われるのです。あなたが神を信じるなら、神は私たちの思いを超えたことをなさることを信じて欲しいです。
ではなぜ、救い主であるイエスは、他の人間とは全く違う生まれ方をしたのでしょうか。イエスを除くすべての人間は、男と女の性の交わりから生まれました。イエスだけが違います。なぜ違うのでしょうか。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。
イエスは特別な存在だからです。神の子と呼ばれるためです。イエスは救い主となるために、聖霊によって生まれたのです。処女降誕、それはイエスが神の子、救い主キリストであることのしるしです。
3.イエスの処女降誕が告げる真理
イエスの処女降誕が告げる真理にをお話しします。一つは、神が全能の神であるということです。神は全能であり、人間の思いを超えることをなさる方だということです。私たちはつい、そんなことは信じられないと言って、神の力を小さくしてしまいます。私たちの常識の範囲でしか行動しない神を造ってしまいます。そして神に期待しない信仰生活を送ることになります。ナンセンス! そんな信仰生活は意味がない!
イエスの処女降誕が告げる第二の真理は、罪人の新生です。マリアが聖霊によってイエスを身ごもり、神の子イエスが誕生しましたように、イエスを信じる者が聖霊を受けて、神の子として生まれるということです。聖霊が洗礼を受けた私たちのうちに住んで下さり、私たちは神の子として生まれます。
私たちも聖霊によって、神の子として生まれ変わるのです。あなたは聖霊によって神の子とされるのです。神の子に生まれ変わったのです。神の子に生まれ変わるのです。私たち信仰者は生まれ変わっているのです。
ペトロの手紙はこう言います。
「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(ペトロ一1:23)。
人間は変わりっこないという人がいますが、全能の神が聖霊を住まわせた人は、新しい人になのです。罪人である私たちは聖霊によって神の子として誕生するという真理を処女降誕は告げているのです。
キリスト者が生まれ変わることについてひと言最後に申し上げます。キリスト者の新生、生まれ変わりは、自動的に起きるわけではありません。
まず、
- 私たちが新しく生まれ変わったと信じるのです。
- 次に生まれ変わった者として歩むのです。
- すると生まれ変わったことが明らかになります。
- 生まれ変わったと信じて歩む、これが信仰の歩みです。
生まれ変わったと信じて歩むとは具体的に言うと、
- 聖書を基準にして考え、行動するということです。
- 聖霊の導きを祈り求めつつ、聖書を読むのです。
- そして聖書をもとにして考え行動するように努力するのです。
- そうする中で、聖書を神の言葉と信じ、これに基づいて考えることが身につきます。
- そのようにして私たちの生まれ変わりが実現します。
繰り返します。信じて歩むとは、聖霊の導きを祈りつつ、聖書を読み、聖書に基づいて考え行動すると言うことです。そうすると神は私たちを実際に生まれ変わらせてくれることがわかるようになります。聖霊によってマリアを身ごもらせた神は、聖霊によって、私たちを神の子として誕生させる神なのです。神様が人を変えて下さるのです。
天の父、聖書には奇跡物語があって、それが信仰に入ることの妨げになることがあります。
聖書が告げる神様は全能の神様であり、全能の神様がなさったことと受けとめるなら、奇跡を信じることは自然なことであると教えて下さい。
私たちの信仰は聖霊の賜物です。聖霊の導きによって私たちのうちに信仰が生まれます。信仰は納得することによって生まれるものではなく、聖霊の導きによって生まれるものであると知ることができますように。
そして聖霊の導きを受けて信仰を持つことができるように導いて下さい。
天の父、イエスが乙女マリアから生まれたのは、イエスが特別な方であることのしるしと学びました。そしてここから二つの真理を学びました。
一つは、神は全能であることです。
今ひとつは、聖霊によって神の子イエスが誕生したように、私たちイエスを信じる者も聖霊によって神の子として新しく生まれたことを教えられました。
罪人であった私たちが神の子として誕生する、うれしい知らせです。これもまた全能の神のみ業です。
人はなかなか変わらないと言われます。イエスを信じる人は聖霊により神の子に生まれ変わり、神のらしく成長することを信じます。
私たち一人一人を神の子として成長させて下さい。
神の子として信仰の歩みを全うできるように導いて下さい。
このような恵みを与えて下さる神様の栄光を現すものとして生かして下さい。