クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の存在証明


↑ マキノスミレ 医王山 姿勢正しく立っている。


 確認はしていないのだが、金沢市から通知が来て、今日、定額給付金が振り込まれることになっている。本棚でも買うか。


 午前、夜、祈祷会。創世記を学んでいる。夜の祈祷会に、沢山出席者がいて感謝。沢山と言っても七名であるが。多くの人と聖書を読んで語り合うことは楽しい。


 午後は、コーヒーの豆を買いに行く。店の入り口にはコーヒーの木が何本かある。店主が、珈琲の花を見せてくれた。可憐である。つぼみもあった。そして豆もあった。コーヒーの豆はこんな風に実るのか、と知った。戻って弟子コースの準備をする。夕方、北陸学院大学の図書館へ。加藤常昭牧師の説教集を返却に。そしてまた借りてくる。車での往復の一時間を大切にしたいと思った。というのはFEBCというキリスト教のラジオ放送局がある。今はインターネットのサイトから、その日の放送内容をいつでも聞けるようになっている。その内容をiPodに入れて往復の道で聞いている。今日はカトリックの司祭の『福音に生きる』シリーズの内容を聞いた。このシリーズを何回か聞いているが、カトリックとの違いは感じない。


 先週ふと思ったこと。神の存在証明について。


 神の存在は何によって証明されるのだろうか。先週土曜日、説教の準備をしながら思ったことがある。キリスト教の教会では、日曜日には礼拝が行われる。その礼拝でも説教がなされる。聖書の言葉に基づいての説教である。その説教のために牧師は準備する。聖書という一冊の書物を目の前において、参考となる本、辞書を用いて説教の準備をする。


 全世界で、教会のあるところ、牧師が、数え切れないほどの牧師たちが、皆営々と説教の準備をしている。真剣に聖書を読んで説教の準備をする。数え切れない牧師たちが聖書に基づいて説教の準備をする。これは、なぜだ! なぜ数え切れないほどの牧師たちが説教の準備をし、神を語るのか。
 もし神がいないとしたら、何と空しい営みを彼らはしていることか。牧師の存在は神の存在を証明している。僕はそう思う。