疲れが少したまったみたいで、午前中はゆっくり過ごす。昼食は弁当を買って医王の里で自然の中で食事。ウグイスの鳴き声が響く。きれいで録音したいと思った。繰り返し聞いていると心が深く安まる気がする。
午後、金沢フォーラスに初めて出かける。島村楽器店でギタースタンドを買った。帰ってビデオを見る。いずれもNHKで放映されたもの。
- 追跡!AtoZ「虐待の傷は癒えるのか」(7月4日放送)
- ハイビジョン特集「物理学者 がんを見つめる 戸塚洋二 最期の挑戦」(7月5日放送)
人間は福音を必要としていることを感じる。福音とは、生きるに当たっての、正しい考え方を提供してくれると思う。癌を宣告された物理学者はブログに日記をつける。その中で一番印象に残ったのは、彼がこう述べたことである。癌と宣告され、死んだら自分の存在は無となる。しかしこの世は何事もなかったかのように、時間の中を進んでいく。そう思ったとたんに、死の恐怖に襲われた、と述べていることである。
こういうことは、僕は小さい時に経験したよ。
わたしも
と妻も。この種の経験を早くした人は信仰に入りやすいのかもしれない。物理学者は仏教に関心を示した。人がどう自分の死を受け入れていくのか、というドキュメンタリは興味深い。人は福音を必要とするものだが、元気な時は、それを求めない。死とか病気とかに直面して、生きることを考える、それが人間か。以下、彼のブログからの引用。
われわれは日常の生活を送る際、自分の人生に限りがある、などということを考えることはめったにありません。稀にですが、布団の中に入って眠りに着く前、突如、
- 自分の命が消滅した後でも世界は何事もなく進んでいく、
- 自分が存在したことは、この時間とともに進む世界で何の痕跡も残さずに消えていく、
- 自分が消滅した後の世界を垣間見ることは絶対に出来ない、
ということに気づき、慄然とすることがあります。
個体の死が恐ろしいのは、生物学的な生存本能があるからである、といくら割り切っても、死が恐ろしいことに変わりがありません。
夜、NHK 教育放送の福祉ネットで、作家の南木佳士さんが「うつと老い」を受け入れた己の人生について語っていた。人というのは生きる目的を考えなくても、一生懸命に何かに取り組むことができるものであることを確認した。正確に言えば、生きる目的がわからないからこそ、何かに熱中するのだ。この人は、医師であり作家であり、猛烈に仕事をしていてうつ病を病んだ。そしてその後、生き方を変えた。小説のテーマも変わったとのこと。自分の生きる意味についてはまだわからないと語っていた。
色んな人が色んな人生を生きている。