クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今日は、北陸連合長老会の牧師会で、小松教会に行く。この牧師会では、説教演習があり、牧師が交代で日曜日に行った説教を再度行い、それを批判します。牧師たちを前にするので緊張します。今回は、僕がまな板にのりました。7月12日の説教です。

以下、内容を書いてみます。

  • 口調はなめらかで心地よく聞こえるが平板になっていた。強調点がわかりにくい。
  • うなづく思いをもって聞いた。み言葉を聞く幸いが与えられた。
  • キリストの十字架に触れてもよいのではないか。
  • 教会とは不思議な存在と語られたが、不思議で終わるのではなく、教会が何かはっきり語って欲しかった。説教には、その時だけしか聞かない人がおり、一回性ということも考慮されてよい。
  • 私たちの弱さを考える時、キリストの十字架を語る必要があるのではないか。人間の交わりだけでは弱さは解決できない。
  • 語る言葉が流れていくが、引っかかるものがなかった。どこに強調点を起きたいのか、アンダーラインを引きたいのか、わからなかった。
  • 説教の構造がすっきりしていない。
  • 今回は教理説教なのに、いつもの講解説教のパターンで行っているので、構造がすっきりしないのでは。
  • 教理説教の場合は、この教理を語りきるという姿勢が必要。
  • 教理説教は、どこをテキストにするかがポイントである。今回のテキスト選択はどうだったのか。
  • 「聖徒の交わりを信じる」という時、賜物が主題となるのか。聖霊信仰の具体的展開としての聖徒の交わりがあることを明らかにするのが教理説教。

 こうして批判を受けることは感謝なことです。