本日のメッセージ(2009.7.26)
聖書 コリント一15:42〜47 身体のよみがえりを信ず
私たちは天国に行った時、どんな状態になっているのでしょうか。知っている人と会うとして、どうやってその人だとわかるのでしょうか。
「身体のよみがえりを信ず」
と使徒信条は告白します。私たちは死んだ時の有様のままで復活するのでしょうか。たとえば、父親が自分の幼い時に死に、自分は老いて死んだら、天国では、父は若く、自分は老人なのでしょうか。これは誤解です。「身体のよみがえりを信ず」といっても、私たちは死んだ時の姿で復活するわけではありません。この誤解が生じた理由は、イエス様が、死んだ時の姿で復活されたからかも知れません。復活したイエス様は、弟子たちに槍で刺されたお腹、釘を打たれた手をお見せになりました。今日は、「身体のよみがえりを信ず」と告白する時、私たちは何を告白しているのかを聖書に聞きます。
結論を言うと、聖書は、体をとても大切に考えており、私たちが復活した時、私たちは体を持っているということです。ただし、復活した時の体は、この地上において持っていたからだとは違います。繰り返します。復活した時の体は、この地上において持っていたからだとは違います。
1.キリストとの出会い
クリスチャンはイエス・キリストを信じます。キリスト教はイエス・キリストとの出会いです。キリストを信じるとは、キリストとの人格的な出会いに生きることです。イエス・キリストと出会うといっても、直接、出会うわけではありません。私たちは直接キリストを見たわけでもありません。イエス・キリストが私たちの目の前に現れるわけではありません。私たちは復活したキリストと人と人が顔と顔を合わせるように出会うわけではありません。
キリストとの出会いは、私たちの心の中で起きます。しかしそれは、死んだキリストが私の心の中で生きているというのとは違います。
たとえば「死んだ夫は私の心の中に生きている」と言う人がいます。この場合、夫は死んでいるのです。しかし妻の心の中には、夫と過ごした日々、夫の語った言葉、夫の振るまいが思い出として心によみがえってきます。それが時に、生きる力になり、支えになったりします。しかし夫は死んで、もういないのです。
私たちの復活のキリストとの出会いは、死んだキリストが私たちの心の中で生きているというのとは違うのです。生きておられるキリストとの出会いなのです。キリストは現実に生きている!と私たちは信じます。生きているキリストとの出会い、これは聖霊の働きです。
私たちと違い、イエス・キリストの弟子たちは、復活したキリストに直接出会いました。それは幻ではありません。キリストは死んだけれども弟子たちの心の中に生きているということでもありません。弟子たちは、現実に復活し、体を持ったイエス・キリストと出会ったのです。キリストは、槍で刺された傷を見せ、釘で打たれた手の傷を見せ、また魚を食べて見せました。イエス・キリストは復活して、今も生きている、このことを宣べ伝えることからキリスト教の伝道が始まりました。
「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒1:3)。
そしてキリストは天に昇り、神のもとに帰られました。キリストの復活を信じない弟子もいました。マタイ福音書の最後には、復活したイエス様が目の前にいるのに疑う弟子がいたことを伝えています。パウロは、コリント書15章の12節以下で、もしキリストが復活していないなら、私たちは神の偽証人だと述べています。神が復活させていないイエス様を、復活させたと嘘を宣べ伝えていることになるというのです。さらに、復活がないのに復活を信じる人は、嘘の希望を頼りにすることになり、この世で最も惨めな人間になると述べています。
キリストは体をもってよみがえられたことを聖書は真実なこととして伝えているのです。イエスの弟子たちも、私たちも生きておられるイエス・キリストの弟子との出会いによって信仰に生きているのです。
2.教会に入ってきた異なる教え・ギリシャ的な考え
使徒信条がなぜ、「身体のよみがえり」という言葉を入れたのでしょうか。この字句は後から付け加えられたと言われています。それには理由があります。「戦い」があったのです。その戦いはコリントの信徒への手紙の中にも書かれています。ギリシャ的な考え方に対する戦いです。
私たちはからだ抜きに自分の存在を考えることはできません。ところが、この体は、やっかいなものなのです。体があるので、男性は、女性に対して情熱を燃やします。抑制できないと、女性を襲ったり、痴漢をしたり、ストーカーになったりします。体があるので、女性は、きれいになろう、スマートな容姿を得ようと、心を使います。ダイエットをし、それがひどくなると、拒食あるいは過食などの摂食障害になったりします。わざわざお金を出して化粧をします。
中年太りになって、メタボは気をつけなければいけないと言われます。年を取れば、体は衰えていきます。病気にもなりがちです。体というのは悩みの種です。現実の自分の体を受け入れることに困難を覚えるものです。もう少しやせていたら、もう少し背が高かったら、もう少し、こうだったら、という思いがつきまといます。死んだ後、遺体が棺に納められます。ある人は、決して死に顔を見られたくないと死んだ後のことも心配します。まことに体というのはやっかいなものなのです。
ギリシャ人は、人間を二つのものからなると考えました。一つは体、この肉体です。もう一つは、魂とか霊とか心とか呼ぶものです。そしてこの二つを分けて考えるのです。たとえば人間は死ぬと、魂が肉体から離れ、解放されると考えるのです。肉体からの解放、それが救いと考えるのです。そこには体は、悪いものという考えがあります。体はやっかいなものだからです。
体と魂を分離して考えると、次のような考えが生まれてくるのです。体を用いて不道徳なことをしても、心は神を信じているのだから、いいじゃないかという考えが生まれます。心が救われているなら、体は何をしてもいいと考えて、ふしだらなことをしたりするのです。コリント教会では、娼婦と関係を持つ信者が何人もいて問題になっていました。パウロは、人間の体は聖霊の住む神殿であって、体をけがしてはならないと教えています。
また心と魂を分離する考えは、霊魂不滅説に至ります。肉体は滅びるが、魂は不滅、永遠であるという考えです。日本の多くの人は無意識のうちに、魂は不滅、永遠と考え、死んだら天国に行くと信じています。体と心、体と魂を分離する考えは、キリスト教とは全く縁のない考えです。この考え方を拒否し、聖書も使徒信条も身体のよみがえりを教えます。
3.神様は体を大切なものと考えている
私たちは、この体なしに、自分を考えることはできません。他の人に見える私とは、この体です。神様は、この私を創造されました。神様は心を込めて私という人間、私の体を造られたのです。こんな体つきでいやだと思う人もいるかも知れません。しかし神様は、あなたを細心の注意を払って、心を込めて造られたのです。あなたの髪の毛がまっすぐなのか、巻き毛なのか、目が二重なのか一重なのか、切れ目なのか、丸い目なのか、背が低いのか高いのか、神様は、あなたのことを心尽くして造られたのです。
私たちは行動する時、この体を使います。そして人を愛する時も、私たちはこの体を使うのです。この体を使って、荷物を持ってあげたり、訪問をしたり、励ましの言葉をかけたり、助けたりします。心の中で人を愛するだけでは愛は伝わりません。愛は体を用いて表現します。体は尊いものなのです。
神様は人を救うために救い主をこの世に送りますが、人として誕生させました。救い主も体を持ち、その体を十字架の犠牲として献げ、救いのみわざをなさったのです。体は尊いものなのです。
人間は、心と体が一つとなった存在なのです。区別はありますが、分離されるものではありません。今日の聖書で、私たちは生まれた時は、この肉の体を持っていると書かれています。この肉の体は、朽ちるものと書かれています。私たちが死ねば、この体は腐り、やがては消えていきます。葬儀を行い、火葬すれば、この体は、灰と骨になります。しかし、復活した時、私たちは朽ちない体、霊の体を持つと聖書は告げます。それが具体的にどんなものなのかはわかりませんが、私たちは復活した時、新しい体を着るのです。
霊魂不滅でも、体を持つ復活でも、そんなのどっちだって良い、そう思う人もいるかも知れません。現実離れした議論に思えるからです。でもちょっと待って下さい。神は人間を、神に似せて造られたと聖書は告げています。神に似せて造られた、それが人間です。その人間は体を持っているのです。しかし人間は堕落しました。神の名を汚すものとなってしまいました。しかし神は人間を救います。神は、イエス・キリストを信じる者を神の子として下さいました。そして、私たちは死にます。死んだらどうなるのでしょうか。
「 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(ヨハネ一3:2)。
「御子が現れる時」とは、キリストの再臨の時です。キリストは体を持ったものとしておいでになるのです。だから「御子をありのままに見ることができる」のです。そして私たちは、キリストに似た者とされると聖書は語ります。人間は堕落しましたが、イエス・キリストに似た者、つまり神に似た者へと回復されるのです。これが救いです。神の国にふさわしい者へ回復される訳です。そこで、こう書かれています。
「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(ヨハネ3:1)。
自分を清める、これはキリスト者の生き方です。神の子として、キリストに似た者となるべく、生きるのです。私たちは体の復活を信じるから、キリストに似るものを目指して生きるという真剣な歩みが生まれるのです。
この体はやっかいなものです。肉体が衰えれば惨めさを感じます。容姿がそれほどでなければ、劣等感を感じます。欲情に振り回され、情けない思いを感じます。体を持つ故、私たちは弱さ、無力さ、惨めさを覚えます。このような弱さ委、無力さ、惨めさを覚えるものを生かす道、それが福音です。
神は、私たちと共にいて下さり、私たちを愛し、私たちを生かして下さるのです。そして、霊の体を私たちに着せて、神の国に迎えてくださるのです。
「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(ローマ8:23)。
ここでパウロは、体が贖われることを願っています。将来、この体が、救われることを願っているのです。それは、私たちが朽ちない体、霊の体でよみがえることを指しています。私たちは、朽ちない体、霊の体によみがえる希望を大きな声で言い表したいと思います。「身体のよみがえりを信ず」と。
天の父なる神様、
私たちがいつの日か、霊の体、朽ちない体でよみがえり、あなたの御国に迎えられることを感謝します。
この体はやっかいなものですが、あなたは福音のメッセージをもって、この体をも生かし、あなたの御国においては、この体を新たな体として下さることを感謝します。
いかにやっかいなものであったとしても、この体は、私たちが生まれた時から死ぬ時まで、私と共にあり、この体がわたし自身でもあります。そして、私たちはこの体に愛着を持つものです。
あなたがこの体を朽ちないからだ、霊の体によみがえらせて下さることを感謝します。
神の言葉である聖書に書かれていますので、このことを真理として受けとめます。
この体をあなたは生かして下さいました。たとい棺の中に入れられたとしても、死に顔をあなたに生かされたものとして人々の目にさらすことをいとわないものにして下さい。この体を誇る者として下さい。
イエス・キリストのみ名により祈ります。