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隠退牧師 holala によるブログ

 第八課 神の喜びのために造られた

暗唱聖句

「主がご自分の民を喜ばれる」(詩篇149:4a)

1.要約


(1)全体要約

  • 神はあなたの存在を喜びとし、あなたを創造された
  • 神はあなたの誕生を心待ちにしておられた。あなたの誕生を心から喜んでいる。
  • 神は、あなたを造ることを喜びとされたので、あなたの創造をすることを選択された。
  • あなたは神のために、神の栄光のために、神の喜びのために存在している。


(2)人生の第一の目的

  • 人生の第一目的=神の喜びのために生きる。
  • この真理の益 → 自分は重要ではないと感じる問題から解放される どうして?
  • この真理は、あなたの存在価値を証明する。
  • 神の被造物の中で、あなた以上に神に喜びをもたらすものは他にない。
  • 神はあなたのことを神の子とし、あなたのことを大切に思っている。あなたを天国に迎える価値があると思うほどに


(3)神の与えた賜物

  • 喜びを味わうという賜物。
  • 神は、私たちに喜びを味わう能力を与えられた
  • 人間には感情が与えられている。
  • 神はあなたに、人生をただ忍耐の対象とするのではなく、楽しんで欲しいと願っておられます。あなたが喜びを味わうことができるのは、神の形に似せて造られているから。
  • 神ご自身、感情を持つ方です。


(4)神を喜ばせる行為は、「礼拝」と呼ばれる。

  • 神に喜ばれるためにあなたがする行為はすべて礼拝です。
  • 神は礼拝者を求めておられる。(礼拝=神を喜ばせる手段)
  • 神は人間の心に、神と結びつこうとする欲求を備えられた。
  • 礼拝は、普遍的な行為。あらゆる社会に見られる。
  • 礼拝に対する理解の枠を広げる必要。


(5)礼拝とは、音楽を遙かに超えたものである。

  • 多くの人にとって、礼拝は音楽と同義語になっている。
  • もっとおかしいのは、礼拝がある特定のスタイルを持った音楽を指す言葉として使われている。
  • 神は、あらゆる種類の音楽を愛されます。
  • クリスチャンはしばしば、礼拝で使われる音楽のスタイルをめぐって意見が分かれます。あなたの好きな音楽のスタイルは、あなたの好みでしかない。


(6)礼拝は自分のためにあるのではない

  • 礼拝に対する誤解。「今日の礼拝はよかった」「今日の礼拝から何も得られなかった」
  • これは、礼拝が自分のためにあると考える過ち、礼拝に対する誤解である。
  • 礼拝は、自分のためにするのではなく、神に捧げるもの
  • 礼拝する動機は、創造主なる神に栄光を喜びをもたらすことにある。
  • 神は、心の伴わない偽善的な礼拝を非難する。


(7)礼拝は人生の一部ではなく、あなたの人生そのものである

  • 礼拝は、教会の礼拝プログラムだけではない
  • 私たちは、絶えず神を礼拝し、いつも神を礼拝することを聖書は教えている。
  • あらゆる活動は、神を賛美し、神に栄光と喜びをもたらすためになされる時、礼拝となる
  • 主イエスに対してするようにすべてのことを行うというのが、生き方を通して現す礼拝の秘訣です。


2.今日の箇所を読んでの感想

 前回は、「すべてのものは神のために存在しています」であった。今回は「神の喜びのために私は造られた」である。「神のためにあなたはいる」と言われた時、「そうなの?」という思いが湧いてくる。これは、自分と神との関係をきちんと確認しておかないといつでも頭をもたげてくる思いである。どうしても人間は、自分中心になりがちである。自分が他者のために存在していると考えることは、自分が自分でなくなるような思いになるのである。


 「神を喜ばせる」という意識を持って自分は、日々生きているのか、と問われたら、そういう意識はもっていないと答えるだろう。神を喜ばせる生き方をするというと、何か見返りを神に期待するような気がして、神を喜ばせるという意識は、持たないようにしてきた。


 自分がクリスチャンとしての歩みをするのは、救われた恵みへの応答という意識がある。神の恵みに応答するのが信仰者の生き方であると考えてきた。そのことを神は喜んでくださると考えている。だから、神を喜ばせるために生きるという意識は希薄である。ただ、神を喜ばせるという意識を持ってもよいのではないか、と思わされた。私は信仰者として神の恵みに応答する生活をするというと、私が中心になる。しかし、私は神を喜ばせるために生きているというと、神中心に生きていることが鮮明に表現されているような気がする。


 礼拝とは音楽を遙かに超えたものであると書かれていた。我々の場合は、礼拝とは説教を遙かに超えたものであると言い換えたほうがよいと思った。礼拝とは説教を聞くことであるという意識の方が、我々には強い。神を賛美するという意識は低いと思う。礼拝というプログラムの中で、讃美歌を歌うが、説教を聞くという礼拝のクライマックスに向かうための讃美歌であり、聞き終わった後、礼拝の終わりに向けての讃美歌という気持ちが強いと思う。かつて僕自身、神を賛美する信仰生活という意識は弱かった。礼拝で讃美歌は歌うが、神を賛美するという意識は弱かった。生ける神様を経験してから、神を賛美することの大切さを知ったように思う。一般の信仰者の思いとして、礼拝は説教を聞くことではないか。そうすると、礼拝は、私が説教を聞く行為となり、そこから、今日の礼拝はよかったとか、つまらなかったという感想が生まれる。それは説教に対する評価から生まれる感想であり、礼拝は自分のためにあるという誤解につながる。


3.熟考するポイント 私は神の喜びのために造られた

 もし、私は神の喜びのために仕える神の奴隷、神の僕と考えると、自分の主体性を失うような気持ちになってしまう。そして、神の喜びのための存在ということに抵抗を覚えてしまう。それは誤解である。
 神は喜ぶことに大きな価値をおいており、神に似せて造られた我々も喜びに価値を置く。そして神は、私たちが喜ぶべきものを喜びとする時、喜ばれる。私たちが欲望を満たす時、満足と喜びを私たちは感じる。しかしそれが自分の満足、自分の喜びを求めるとしたら、それは、喜ぶべき喜びではない。少なくとも、神への感謝や賛美が伴う必要がある。


 私たちは何を喜ぶのか。それは、神の目的に生きることを喜ぶのである。人生を楽しむことも神の目的に生きることと対立、矛盾はしない。
 あらゆる活動は、神を賛美し、神に栄光と喜びをもたらすためになされる時に礼拝になると書かれている。これは本当に大切である。あらゆる活動を、神の栄光と喜びのために行うと位置づけることが大切である。人生を楽しむ時も、神の栄光に結びつけることが大切である。


 すべてのことを神の栄光のためにするには、すべてのことを主イエスに対してするように行うこと書かれていた。そして、そうしている間も、神との会話を絶やさないようにすることとある。キリストに結ばれた者として生きる、神との交わりに生きる者として生きる、それが大事なのだ。何をするにしても、神を忘れてはいけない。


4.考えてみよう

日常の活動の中で、主イエスに対するようにできることは何ですか。

 神の臨在を意識しながら仕事に打ち込むこと。神との会話を絶やさないで何事も行うこと。ギターを用いてもっと神様を、主イエスをたたえること。ディボーションを行い、御言葉に基づいて、御言葉に導かれた歩みをすること。