クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.9.20)
聖書 ヨナ書 三章 人生の、その瞬間


 二人の青年が、夜の歓楽街に出かけようとして町を歩いていました。途中、教会の前を通りかかりました。その日は、夜の集会が予定されていました。玄関に看板があり、「罪から来る報酬は死です」と書いてあったそうです。一人の青年はそれを見て不愉快になりました。もう一人の青年は、「僕は今晩、遊びに行くのをやめて家に帰るよ」と言いました。


「何で急にそんなことを言うんだよ。一緒にここまで来たんだろ。行こうよ」。「いいや、僕は帰る」。二人は押し問答を繰り返しましたが、結局二人は別れました。一人は歓楽街へ。もう一人は、家に帰るふりをして教会に行きました。


 教会に行ったこの青年は、後にアメリカの大統領になりました。クリーブランド大統領です。アメリカの22代の大統領です。オバマ大統領は第44代の大統領です。大統領就任式の日です。刑務所の中で一人の囚人が涙を流していました。俺は、大統領となったあいつと町の歓楽街で遊んでいたんだ。なんて情けないんだ」。


 ここで人の心の不思議さを思います。教会の看板を見て、一人は不愉快に思い、もう一人は夜の町に遊びに行くのをやめて教会に行ったのです。どうして、二人の間に違いが生じたのか、不思議です。二人の生育歴、育った環境などを調べれば、なるほどと思えることがわかるかも知れません。


 ある場面で、どういう判断をし、どういう行動をするのか、そこにその人自身が現れてくるというのも事実です。私たちは、日々、そういう選択を繰り返しているといってよいと思います。


1.悔い改めたニネベの人々 


 最初ヨナは、神から呼びかけられた時、ニネベに行くことを拒否しました。しかし、今一度神からの呼びかけを聞くと、彼は、神に従いました。

「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った」(3節)。

そして神から語るようにと言われたとおりに、ニネベの町の人々に向かって叫んだのです。

「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(4節)。

 ニネベの人々はどうしたでしょうか。

「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった」(5節)。

 ヨナの言葉を聞いた人は、神を信じ、神が町を滅ぼすに違いない、そう信じたのです。そして「粗布を身にまといました」。これは悲しみ、悔い改めの表現です。町の人々の様子を聞いた王もまた、ヨナの語ったことが本当だと信じ、滅亡を免れたいと考えたのです。王もまた粗布をまとい、布告を出します。その内容が書かれています。

「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」(7〜8節)。

そして期待したのです。

「そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」(9節)。

 そして実際に、神は災いを下すことをやめたとあります。神は悔い改めたニネベの町の人々を赦し、滅ぼすことを中止したのです。


 なぜニネベの人たちがヨナの言葉を信じ、悔い改めたのか、不思議です。日本には、キリスト看板というのがあります。町を歩いていると、家の外壁に看板が貼り付けられているのを見ます。


 黒の背景に黄色または白で、「死後さばきにあう」「キリスト以外に救いはない」「キリストはあなたに永遠の命を与える」などの文字が書かれているのです。色んな言葉が書かれていて、イエス・キリストを信じるようにと訴えています。これを、キリスト看板と呼ぶ人々がいます。


 これは聖書配布教会という団体の伝道活動によるものです。この団体は、選挙カーのように、町中を走り、スピーカーを通して、大きな声でメッセージを送っています。金沢でも、最近、街宣活動をしていました。

 キリストは私たちの罪を取り消すために身代わりに死に、三日目によみがえりました。あなたは反省をして天の神の救いを信じて下さい。キリストは近い将来、世界の人々をさばきに来られます。滅びに定められる者は多く、救いにあずかる人はわずかです。あなたは神を拒まないで、イエス・キリストを信じ、救われて下さい。救いとは罪が赦され、永遠の命をいただくことです。神の大いなる裁きの日が近づいています」。

 こういう放送を聞いて、受けとめる人はどれほどいるのでしょうか。ヨナを模範として車で町を走りながら呼びかけているのでしょう。ニネベの人々は、ヨナの語る言葉を信じ、滅びを免れるために悔い改めたのです。悔い改めるとは、自分の罪を認め、罪から離れ、自分の生き方を変えることです。


 旧約聖書には、何人もの預言者が登場し、神の言葉を語ります。彼らもまたイスラエルの人々に悔い改めを迫りました。しかしイスラエルの民は、預言者の語ることを聞かず、悔い改めなかったのです。それどころか、預言者を迫害したのです。ところがニネベの人々は、ヨナの語る言葉を信じ、悪の道を離れたのです。


 なぜニネベの人々は預言者の語ることを信じ、イスラエルの民は信じなかったのか。人の心の不思議さを思います。


2.人には悔い改める瞬間がある 


 ニネベの人々はヨナの語る言葉を聞きました。ヨナに語りかけ話し合ったかも知れません。ニネベの人々が何を思い、何を考え、悔い改めたのか、知ることはできません。一つだけ確かなことがあります。ニネベの人々は、ヨナの叫びを聞いて、どうしようか、と考えたということです。


 私たちが生きていく時、大切な「一瞬」があります。その一瞬を捕らえるか、逃すか、それが人生を変えてしまうほどの重みを持つのです。「罪から来る報酬は死です」と書いてあった教会の看板を見た瞬間、それは二人の青年の将来を決定した瞬間でした。一人の青年は歓楽街に足を運び、もう一人の青年は教会に行ったのです。


 聖書は、こういう一瞬に人々がどういう対応をしたのかを描いています。


 まずこの大切な一瞬を無駄にした人々がいます。たとえば聖書の最初にある創世記にカインという人物が登場します。彼は弟のアベルと共に、神にささげものをします。神は弟の捧げ物だけを受け入れ、カインのささげものは目を留めなかったのです。カインは、怒るのです。なぜ自分の捧げ物を神は受け入れないのか、と。その時神が言います。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。おまえが正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」。

 これを聞いた瞬間、カインは怒りに流されるか、怒りを制御するか、分かれ道に立っていました。カインは、怒りを弟に向け、弟を殺してしまいました。カインは、罪の重荷を背負って生きることになります。


 創世記には、ロトという人物が登場します。彼はソドムという町に住んでいました。この町は堕落していて、神はこの町を滅ぼそうとしました。神の使いがこの町に来た時、ロトは、神の使いを家に招き入れました。神の使いはロトに、「滅ぼされないように、町から出なさい」と言いました。


 ロトは、娘たちの夫に、そのことを告げました。その瞬間、夫たちは、「冗談だ」と思ったのです。彼らは義理の父の真剣な言葉を聞いた瞬間、冗談と思って聞き入れませんでした。その結果、彼らは町と共に滅びてしまいました。


 逆にその瞬間を受けとめた人も登場します。


 ペトロがエルサレム神殿の境内で説教をしていました。ペトロは、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを神はメシアとされた」と語り終わった瞬間、その瞬間、人々は心を強く刺されたのです。


 そして、人々は、「私たちはどうしたらよいのですか」とペトロに尋ねています。ペトロは、「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と返事をしました。


 ダビデという王がいました。彼は、ある時、美しい女性を見て、彼女を自分のものにしてしまいました。さらには、その女性の夫を戦場に送り、戦死させたのです。ダビデは、殺人と姦淫の罪を犯したのです。


 家来のナタンが王であるダビデを戒めるのですが、たとえを話します。そこには悪人が登場します(サムエル記下12:1〜6)。

 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」


ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」

そしてナタンは言います。「その男はあなただ」。こう言われた瞬間、この瞬間、ダビデはどうしたか。彼は「私は主に罪を犯しました」と罪を告白しました。家来のナタンを殺して、自分の罪をうやむやにすることはできます。しかしダビデは自分の罪を認めたのです。ニネベの人々は、ヨナの叫びを聞いて、悔い改めたのです。


3.あなたは、その瞬間、どうするか 


 その一瞬を捕らえるか、逃すか、それが人生を変えてしまうほどの重みを持つことがあります。

  • 自分の罪が指摘されたその瞬間、素直に悔い改めるのか。それとも言い訳をするのか。あるいは無視するのか。
  • 説教を通して、新しい一歩を踏み出すように示されたその瞬間、どうするのか。一歩踏み出すのか、ぐずぐずためらい、その瞬間をやがて忘れてしまうのか。
  • 信仰の友の話しを聞いて、模範にしたいなと思った瞬間、どうするのか。実行に移すか、忘れるのか。


 神様は、私たちを導くべく、その一瞬、瞬間を与えて下さるのです。いつの日か世の終わりが来て、すべての人は神の前に出て神に裁かれると聖書は告げています。ヨナの言葉を聞いたニネベの人々と同じように、私たちも警告の言葉を聖書から聞きます。


 あなたも今「神の前に出る」と聞きました。今、この瞬間、あなたはどうするのでしょうか。ニネベの人々は、悔い改める人の模範となりました。


祈り


天の父、大切な一瞬があることを教えられました。その時、どうするのかで道が分かれます。御心にかなう選択ができるように導いて下さい。私たちを憐れみ、大切な一瞬を逃さないように助けて下さい。
 思い巡らしてみると大切な一瞬を無駄にしたことが思い出されます。あなたが与えて下さるその瞬間を無駄にしないように、そしてあなたの祝福に満たされる人生を選び取っていくことができるように、私たちを憐れんで下さい。イエス・キリストのみ名により祈ります。