クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

ローマ 3:21〜31
メッセージ 義とされるとはどういう事か


はじめに


 信仰によって義とされることを今日は聖書に聞きたいと思います。二つのことを話します。一つは、信仰によって義とされるので、私たちはいつも神の前に正しい者であると確信を持つことができるということです。第二に、神様の教えを守っても義とされないと考えますから、私たちは、自分の行いを誇ることはできない、ということです。


1.神との交わりに生きる信仰


 私たちの信仰は神との交わりに生きる信仰であす。キリスト教信仰は、戒めを守ることを第一とする戒律宗教ではありません。キリスト教信仰は、神様との交わりに生きるところに特徴があります。


 聖書を読む、それは神の語りかけに聞くということです。祈る、それは神に向かって語ることです。自分の気持ちを正直に打ち明けるのも祈りです。人間を愛するゆえに、神は戒めを与えて下さいます。神を愛するから、神の戒めに従います。キリスト教は、神との交わりに生きることを内容とする信仰です。


 それではどうしたら、神様との交わりに生きることができるでしょうか。神との交わり、それは神様とおつきあいすることです。人とつきあうためには、その人と知り合いにならなければなりません。知らない人に声をかければ、あなた、誰ですか、と言われます。


 神様と知り合いになり、神様と交わるにはどうしたらよいのでしょうか。神社に行くと人々はお賽銭を投げて祈っています。お賽銭を投げれば神との交わりに入れるのでしょうか。


 私たち祈る時、天の父と呼びかけて祈ります。私たちは、神様の子供になっているわけですね。私たちが神の子となるのは、洗礼を受けることによってですね。なぜ、洗礼を受けるのでしょうか。それは、私たちが罪人であるからです。神様は聖なる方ですから、罪人とは交わりを持てないのです。私たちは皆罪人なんです。


 なぜかというと、聖書によると神様は万物の創造主です。私たちは、神に造られたのです。神によって命を与えられ、今生きているのです。神に命を与えられて生かされていることを感謝しないなら、それは恩知らずということです。神を神として敬わず、神を無視して生きる、これはひどい罪です。神を信じていても、神を神として敬わないなら、それも罪です。


 私たちはいきなり神と交わりを持つことはできないのです。私たちだって、私たちに対して恩知らずなことをした人が「お元気でしたか」と親しげに近づいたとしても、笑顔で迎えるわけにはいきません。恩知らずな行為について、相手が謝れば、つきあうことはできます。謝らない限り、気持ちよくつきあうことはできません。


 では罪人である私たちはどのようにして神との交わりに入れるかというと、イエス・キリストのおかげです。

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(25節)。

 神との交わりに入るためには、罪を償う供え物を神にさしだして、神に赦してもらえば、神との交わりに入れます。罪を償う供え物、それはイエス・キリストです。イエス・キリストが十字架の上で死に、血を流し、償いの供え物となって下さったのです。


 普通は、罪を犯した人が罪を償うための供え物をささげるのです。ところが、神の方から、イエス・キリストを供え物としてささげたと聖書は語るのです。罪を赦す方が供え物を差し出すなんて、逆です。不思議ですよね。


 つまり、これは神様の方から、私たちを交わりに招いているということです。


 「償いの供え物なら、私が出しておくから、おいで」と神様がおっしゃっているわけです。だから、神様との交わりに入るためには、イエス・キリストが罪の償うための供え物であることを認めればよいのです。イエス・キリストは、私の罪を償うための供え物であるであると認めれば、神との交わりに入ることができるのです。私たちは、イエス・キリストが私の罪を償うための供え物であると認め、信じ、洗礼を受けます。そして神の子とされ、そして神を天の父よ、と呼び、祈り、神との交わりに入るわけですね。


2.信仰によって義とされる。

「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(22節)。

 イエス・キリストが供え物であると信じる人は、神から正しい者とみなされ、神との交わりに入ることができます。「義とされる」とは、正しい者とみなされるということです。

「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(24節)。

 神様によって、私たちは正しい者とみなされるので、神様との交わりを持つことができるということですね。


 ここで「神の恵みにより無償で」義とされるとあります。償いの供え物は、神様が差し出して下さったので、人間の側からは、何も出しだしていません。ですから、ただで、無償で、つまり、人間の側からは何も差し出さないまま、私たちは赦され、正しい者とみなされたということです。


 ですから、私たちは神の恵みによって、義とされました。恵み、つまり神の一方的な行為によって私たちは義とされたのです。


 そうはいっても、自分の行いによって義とされる可能性はないのだろうか、という人もいるかも知れません。では、私たちが神との交わりに入るために、罪の償いをするとしたら、どれほどの償いをしたらよいのでしょうか。相手に与えた損害に等しいものを償えばよいわけですね。しかし、神を神として敬わなかった罪というのは、どれほどのもので償えばよいのでしょうか。


 神様の教えを全部守ればよいのでしょうか。それだと一つでも守らなければ、神を敬ったことにはなりません。人間には神の教えをすべて守ることはできませんから、自分で罪の償いをすることはできないのです。


 そこで神の方から、イエス・キリストを罪の償いとして差し出して下さったのです。私たちには、自分を正しい者と神様に認めてもらう資格は全くないということです。逆な言い方をすれば、どんな人でも、イエス・キリストの償いのおかげで義とされるということです。ですから、私たちが義とされるために、人間の側で、神に喜ばれることをする必要はないということです。


 ささやきが聞こえます。あなたは罪を犯しているけど、それでも、神から正しいとみなされているといってもいいの?

どうでしょう。


 私たちがどんなに罪を犯したとしても、その都度悔い改めて神の赦しをいただけば、私たちは神の目に正しい者なのです。私たちは、神様の教えを全然守ることができなくても、イエス・キリストのゆえに、義とされているのです。また義とされるために、神の教えを少しも守ることができなくても、イエス・キリストを信じるゆえに、神は義としてくださるのです。


 義とされるために、自分の行いの果たす役割はゼロ、神の恵みが100%ということです。そして私たちはいつも、神様の目には正しい者なのです。私たちはいつも神様の目には正しいものであるという確信から、何が起きても離れてはなりません。それが信仰によって義とされるということです。


3.義とされるとは、自分の義を誇らないことである。

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(27節)。

 義とされるということは、自分には誇りうるものは何もないということを認めることです。神様からイエス・キリストを信じるゆえに、正しい者と見なされるとは、自分には誇るものがないと認めることです。神に対して、自分は神様の教えをこれだけ守っていると、自分の行いを誇ることはできないということです。


 義とされるということは、自分は神の教えを守り、よくやっていると自分を誇らないということです。逆に言えば、自分は神の前に正しいと認められるようなものは何一つ持たないみじめな人間だということです。


 イエス様のたとえで、放蕩息子の物語があります。兄は、弟を放蕩で身を持ち崩したどうしようもない人間と見ています。帰ってきた弟は、落ちぶれ、譲り受けた財産はすべて使い果たし、惨めそのものです。父は憐れみをもって、あるいは恵みをもって、彼をわが子として迎えています。これは義とされた人間を示しています。


 兄は、自分は父に仕えて立派に生きていると自負し、弟を受け入れる父親に不満を抱きます。この兄の不満がもっともだと感じる人は、自分は良くやっていると考えている人です。


人は自分に誇りを持ちたいので、自分は良くやっていると誇りたいのはわかります。


「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(27節)。
「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(28節)。


 人が義とされるのは、神の教えを守るからではなく、信仰によるからです。イエス・キリストが償いとなって下さったので、義とされるのです。自分がどれほどよくやっているのか、神の教えを守っているか、それは誇りうるものではないのです。自分を義とすることはできないからです。


 信仰によって義とされると信じるとは、自分の行いを一切誇らないと認めることです。自分の行いに価値を認めて、報いを神に求めないということです。


 しかし、これがなかなか難しいのです。


 これが難しいために、私たちは間違った考え方をしがちなのです。たとえば、自分の行いが不十分だから、神の祝福がないと考えます。たとえば、信仰者として自分が立派でないから、家族が信仰を持たないのですと言う人がいます。裏返せば、家族が信仰を持ったのは、自分の信仰が立派だからだ、となります。


 人間の行いがよい結果をもたらすという考えです。これは人間を苦しめる考えです。


 元々神の前に正しい者と認められない者の家族が信仰を持つのは神の恵みです。神の教えを守っていても、いなくても、神はイエス・キリストのゆえに私たちお義としてくださるのです。そんな神様が、神様の教えを守っているか否かで、祝福するかしないか、そんな判断はしません。神様はそんなけちな方ではありません。


 信仰によって義とされた私たちは神の子とされ、神の目に不十分なものとは見なされないのです。


 私もかつて祈りが少ないから、神学の勉強が不十分だから、あれが足りないから、これが足りないから伝道の実りが結ばないのだ、と考えていたことがあります。人間の行いが神の祝福をもたらすという考えです。これは人間の行いを誇る考え方で間違いです。


 祝福は、神の恵みとして与えられるもので、人間の働きの報酬として与えられるものではありません。


 また何かあると、自分を責める人がいます。自分を責めるというのは、自分はもっとうまくやれたはずだという考えがあります。これも自分の行いを誇る考え方で、間違いです。自分が間違ったことをした時は、自分を責めるのではなく、神に赦しを求めるのです。放蕩息子の兄のように、自分の行いを誇りたいという気持ちは私たちにこびりついています。これは捨てなければなりません。なぜなら、私たちは神の前に自分を正しい者と認められるようなことはできないのですから。


 神の恵みと憐れみによって、私たちは正しい者と見ていただき、神の子とされたのです。義とされるということは、自分の行いを少しも誇らないということです。だからと言って私たちは神の戒めを疎かにはしません。

「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」(31節)。

 私たちは神様の教えをもちろん守る努力をします。それは神様に赦されたことを感謝するから守ります。見返りは求めません。神の教えは、私たちにとってよいものです。だから守ります。ただそれだけです。そしてそれが喜びなのです。神様を愛し、神様の教えを守ることができたことを喜ぶ、それで十分です。それが律法を全うすると言うことです。



4.祈り

天の父、イエス・キリストを信じることにより、私たちを救い、あなたとの交わりに入れて下さったことを感謝します。
私たちが行ったことではなく、信仰によって義とされたことを感謝します。
それ故、私たちは神様の目には正しいものであるという確信から離れることがないように導いて下さい。
人を傷つけたり、怠惰になったり、自分に落胆したり、嫌気がさしたりする時も、あなたの目には、正しいものであるという確信から離れないように守って下さい。
逆に、自分は神様の教えを守っていると誇ることからも私たちを守って下さい。
思い上がれば人を裁き、このような誇りを持てないといっては、自分を責めたり、自分を死卑下することから、私たちを守って下さい。
ただあなたの恵みによって救われ、あなたの憐れみによって生かされていることを覚えさせて下さい。
あなたの教えを守ることができたのなら、誇ることなく、そのことを感謝し喜ぶことができますように。
あなたの教えを守ることができなかった時、自分を責めることなく、憐れんで下さいと赦しを求め、聖霊の助けによって守れるように、神の恵みを求めることができますように。
どのような時も、赦され、あなたの目に正しいものとされ、自分が神様の喜びの対象であることを覚えることができますように。
イエス・キリストのみ名により祈ります。