クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.10.04)
聖書 ヨナ書 四章 目もくらむ神の愛の大きさ


 神に遣わされ、ヨナはニネベの町に出かけ、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫びました。ニネベの都は悪に満ちていたから、神がこれを滅ぼすというのです。神の裁きが下ると告げたのです。


それを聴いたニネベの都の人々は、悔い改め、行いを正し、神が思い直されることを期待しました。神は思い直され、宣告した災いを下すのをやめたのです。どうしてそれがわかるのか。四十日過ぎても何も起きなかったのです。


1.ヨナの思い 

「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った」(1節)。

 ヨナは、神が災いを下すと言ったのに、思い直したことに怒りを覚えたのです。

「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか」(2節)。

 ヨナが最初、神からニネベに行きなさいと言われた時、ヨナは、行きたくない理由を神に伝えていたのです。そして今、恐れたことが起きたというのです。聖書は、それが何かを明確には書いていません。

「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(2節)。


 ヨナは神が思い直されることを理由にニネベに行くことを拒んだのです。ヨナには、ニネベの都が救われることを願わない強い理由があったということです。ニネベというのは、アッシリアという国の都です。アッシリアは、イスラエルを滅ぼした国です。イスラエルの敵です。


 そのアッシリアの都を神が憐れみのゆえに赦すことがわかっていたので、ニネベには行かないとヨナは決心したのです。ニネベの都はイスラエルの敵なのだから、滅びればいい。神がこれを救うなんて、あってはならないことだったのです。


 そして「あと40日したらニネベの都は滅びる」と叫び、実際に滅ぶなら、ヨナは喜んでニネベに行ったことでしょう。しかし神が滅ぼすのをやめるなら、イスラエルの敵を赦すなら、ニネベには行けない、行きたくない。それがヨナの気持ちだったと思われます。


 しかし神の命令に逆らう、それはヨナの不信仰であり、不従順でした。


2.神とはいかなる方か 


 ヨナは2節で大切なことを語っています。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み」。ヨナは神がいかなる方かをこれ以上ないほどに、明確に述べました。


 モーセシナイ山に登り、十戒の書かれた石の板をもらった時、神はご自分がいかなるかたかを宣言されました。

「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」(出エジプト34:6)。

 神の愛の特徴は、憐れみ、恵み、慈しみ、忍耐です。神は私たちが悔い改めるのを忍耐強く待ち、罪を犯す私たちを憐れむお方です。私たちに恵みを与え、私たちが幸せとなるように慈しんでくださるお方です。


 神様は、ご自身を憐れみ深く恵みに富み、忍耐強く、慈しみに満ちていると、ご自身の愛を語っています。私たちは、神が、憐れみと恵みと慈しみに富む方であり、忍耐強い方であるという確信から離れてはなりません。神様ご自身が、モーセにご自分がいかなる方かを明確に宣言されたのです。


 もし私たちが神をこのように理解しないなら、これとは違って信じるなら、私たちが信じるという神は、私たちが作った神、偶像になってしまいます。そして私たちは偶像を礼拝することになります。私たちの身に何が起ころうとも、この神理解を捨ててはいけないのです。神に対して反抗的なヨナでさえも、この神理解に立っていました。


 神の愛の特徴は、憐れみ、恵み、慈しみ、忍耐、この四つであることをヨナは信じていました。この神の愛は、イエス・キリストの十字架の死に、罪人を赦す神の愛として明確に現れています。またあの放蕩息子の物語に登場する父親の愛の中に明白に現れています。


 あなたの信じる神はどのような方ですか、と問われたら、憐れみ、恵み、慈しみに富み、忍耐強い方と答えることができます。ヨナは、神がこのような方だと知っていました。しかし、憎むべきアッシリアを神が顧みることは耐えられなかったのです。


3.祈り神との対話 

「彼は、主に訴えた」(2節)。

 ヨナは自分の不満、怒りを神にぶつけたのです。これは祈りです。祈りとは、自分の正直な気持ちを神にぶつけることです。ヨナは神に対する怒りを神にぶつけたのです。「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」(3節)。ヨナの不満、憤りの表現です。


 私たちは、どんな気持ちも神にぶつけることができるのです。詩編を読むと、敵を滅ぼして下さいという願いさえ、神に向けて訴えられています。ヨナみたいにあからさまな感情をぶつけてよいのかと思うかも知れませんが、神様は私たちが正直になることを喜ばれるのです。


 怒りの気持ちだけでなく、どんなに辛いか、どんなに悲しいか、どんなに惨めか、どんなに悔しいか、このような気持ちもすべてぶつけてよいのです。感情を自分の心に抑えてしまうのはよくありません。神様に向かってはき出すのです。そこからその気持ちの解決の道が開かれるのです。ヨナは、自分の気持ちを正直に訴えるという点で、私たちの模範です。


 ヨナに対して、神は答えます。主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか」。これに対して、ヨナは答えません。自分が正しくないことはわかっているのです。だからこそ、「おまえの態度は正しいのか」と言われると、むっとして、答えないのです。


 以前奉仕していた教会で、女性信徒の息子さんがガンになりました。彼は結婚して幼子が二人います。親としての悲しみ、嘆き、察するにあまりあるものがあります。私は、聖書の言葉を持って励ましました。またわたし自身も祈りました。

  • エス様のもとに連れてこられた病人は、みないやされました。
  • マルコ福音書の最後には「信じる者には次のようなしるしが伴う。病人に手を置けば治る」。だから手を置いて祈ります。
  • 祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」(マルコ11:24)。だから、信じます、と言って祈ります。
  • 「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(エフェソ1:19)。神様、あなたの大いなる力を悟らせて下さい、と癒しを願います。聖書の言葉を語り、姉妹を励まし、信仰をもって祈りました。

 残念ながら、息子さんは亡くなりました。妻と幼子が残されました。聖書の言葉に基づいて、熱心に、忍耐強く、祈りもとめたのに。彼女も、私も、この事態を受けとめるのに困難を覚えました。だから、落胆はとても大きく、しばらく、癒しを求めて祈る気持ちにはなれませんでした。


 「聖書に基づいて祈ったのにかなえられない、と落胆するのは正しいことか」と神があの時、私に語っていたのだなと思います。あの時、私はその神の声を聞きませんでした。で、今、この問いを聞く思いがします。神に正直に自分の気持ちをぶつけるヨナは、私たちの模範です。


4.罪人への神の愛 

「そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした」(5節)。

 なぜヨナが、都に何が起きるかを見届けようとしたのか、私には理解できません。ニネベの都を滅ぼすことは神は思い返したのです。町の中に入って、ニネベの人たちがどのように悔い改めの生活を送るようになったのかを見ようとしたというなら、わかります。ヨナは神に訴えたので、神様がニネベの都に対して、何かをすることを期待したのかも知れません。


 ヨナは都の東に小屋を建てましたが、日射しが強く、暑さに苦しみました。そこで神は、とうごまの木を生えさせ、ヨナの身長よりも高く伸びさせ、ヨナに日陰を与えました。ヨナは喜びました。ところが次の日、神はとうごまの木を枯らせ、さらに焼け付くような東風を吹かせました。何でとうごまの木が枯れたんだ、とヨナは内心怒ったのです。そこで神はヨナに言います。

「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」(9節)。

 今回は「もちろんです」と自分が怒るのは正しいことだと主張しました。そして神は答えます。

「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。

 神の愛は、広く深いのです。神は、憐れみに富み、慈しみ、恵みに満ちている方なのです。他の人に神の愛が豊かに注がれる時、私たちは妬みを覚えることがあります。それは私たちの心の狭さの表れです。そしてヨナの心の狭さもあらわになってしまいました。そして神の愛はそのヨナにも注がれていました。

  • 神の命令を拒んだヨナを神は見放すことはしませんでした。海に放り込まれたヨナを救いました。
  • 再度、ニネベに行くようにヨナに使命を与えました
  • 神が災いを下すことを思い直したことに対して怒るヨナを神はなおも導こうとされます。「あなたが怒ることは正しいことか」。
  • そして日陰をつくるためにとうごまを木を生えさせます。神はヨナを愛しているのです。
  • そして神は、人間に対する愛をヨナに聞かせます。

「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。

 神はヨナを愛し、ヨナを諭しました。不従順なヨナをも神は愛し、彼を諭したのです。神は、憐れみに富み、慈しみ、恵みに満ちている方なのです。この神の愛は私たちにも注がれていることを信じ抜きたいと思います。


祈り


天の父、あなたの変わることのない愛を信じます。
あなたは悔い改めるニネベの都の人を愛し、またヨナを深く愛しました。
あなたの愛が、私たちの上に注がれていることを信じます。
時に、あなたの顔が見えず、あなたの愛が自分に注がれているとは思えない時もあります。
そのような時には、正直に神様に自分の気持ちを訴えることができますように。
訴える私たちに答えてくださる神様を信じることができますように。
あなたの愛のゆえに、あなたを賛美します。イエス・キリストのみ名により祈ります。