クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.10.25)
聖書 詩編 27 神にゆだねる信仰


 神にゆだねることは、人間の側からは何もしない無責任な安易な態度ではありません。すぐれて自主独立の態度です。神にゆだねるとは、

  • ゆだねた結果が何であれ、それを神の導きの結果、しかも最善の結果と信じ抜く態度です。
  • さらに神にゆだねるとは、神の導きに従うということであり、自分でよかれと思う行動をする代わりに、つまり自分の分別に頼らず、神の導きに従う態度です。その神の導きにゆだねるということなのです。
  • 神の導きを得るためには聖書を読み、祈るという地道な信仰の努力が必要です。自分の分別に従うよりもはるかに困難な歩みです。しかし、やりがいのある生き方です。


 箴言にこう書かれています。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(3:6)。

 自分の分別に従って歩むと思い煩いが生じます。神のみ言葉に従って歩む、それが神にゆだねる生き方です。神にゆだねる信仰に生きる時、私たちには平安があるのです。


1.神にゆだねる信仰は、潔い信仰である 

「主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう」(1節)。

 「主」とは神様のことです。ダビデは、神はわたしの光、わたしの救い、わたしの命の砦と告白しています。絶大な信頼です。私たちは時に、暗闇の中に閉じ込められたように希望を持てず、絶望するしかない状況に陥ります。しかしダビデは、神は光となって私を助け、救い出してくださるという信頼を告白しています。砦とは、敵の攻撃から自分を守る場所のことです。主は、命の砦と告白し、神こそ私を守って下さる方だと告白しています。しかも、ここでは「わたしの」という言葉が三回繰り返されています。あなたでもなく、みんなでもなく、他ならない、この「わたしの」光、救い、砦と述べています。


 ダビデは、個人的に、神の救いを体験し、神こそ、私を救い、私を守る方であると告白しているのです。聖書のサムエル記を読むと、ダビデはサウロ王から命を狙われています。サウロ王は、ダビデが自分の命を奪い、王になろうとしているのではないか、と疑心暗鬼に陥り、ダビデを殺そうとするのです。ダビデは逃亡生活を続けます。王に一生懸命仕えているのに、なぜこんなことになるのかと落胆しそうになります。しかし、神は光、救い、砦と告白するのです。そして実際に神が彼を守り抜きます。

「わたしは誰を恐れよう」「わたしは誰の前におののくことがあろう」。

 これも強烈な信頼の告白です。2〜3節では敵が私を襲ってきても、戦いを挑んでも、わたしは恐れない、と神の助けを確信すると告白します。


 ダビデは揺るぎない信仰に立っています。そのように思えます。ダビデのように、神に徹底して信頼することは難しいと思う人もいるでしょう。このダビデの神への信頼は、揺るがない信仰から生まれた言葉というよりは、信仰の決意表明のように思えます。主は、わたしの光、救い。だからわたしは誰をも恐れない、こういう生き方をわたしはするとの告白です。


 ここには潔く、神に信頼する信仰が表されています。


 また忘れてはならないことですが、信頼する心には、疑いが忍び寄ってくるものです。太宰治の「走れメロス」という短編小説があります。これは信頼をテーマとした感動的な短編小説です。

  • メロスの友人は、メロスが時間に間に合うように必ず戻ってくると信じています。
  • メロスは、友人が信じているから、その信頼に応えようとします。
  • しかし一回だけ、友人はメロスが戻らないのではと疑います。
  • メロスも一回だけ、努力したが力尽きた、赦してくれ、とあきらめます。しかしメロスは、力の限りを尽くして走り続けます。


 友情というのは、相手を信頼し、信頼に応える関係です。わたしは信頼されている、だから走る、とメロスは力の限りを尽くして走ります。信頼するとは、疑いがあってもなお信頼するということです。疑いが私たちの心に湧いてきた時、信頼するほうを選ぶのです。


 神と信仰者の関係も、信頼し、信頼されるという関係です。神もまた、私たちが神に信頼するだろうと、私たちを信頼しているのです。疑いを捨てて信頼すると言いました。しかし、信頼しても期待が裏切られるような結果になるかもしれないという恐れ、不安は強いものです。


 疑いを捨てることができますか。


 主イエスは種まきのたとえを話されました(マルコ4章)。あのたとえの中で、困難が起きるとすぐに信仰を捨ててしまう人のことが語られていました。疑いに負けて信頼しないのは、本当の信頼ではない、ということです。疑いを感じているにもかかわらず、本当に神に信頼する気持ちがあるかどうか、問われるのです。


 神にゆだねるとは、神を信頼することですが、信頼した結果がどうなろうと、それが最善の結果であると信じ、神を信頼するということです。繰り返します。神にゆだねるとは、結果がどうなろうと、それでもなお神を信頼するということです。自分は神の導きのもとに置かれていると信じ続けることです。

「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」(詩編37:24)。

 疑いに勝利していくのです。疑いがあっても、それにもかかわらず、信じる、信頼するという潔い行動、それが神にゆだねるということです。

「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを」(4節)。

 希望を失い、行き詰まって、疲れ果てても、主の家を宿とし、一晩を過ごすのです。主への信頼を取り戻し朝を迎える、それが喜びなのです。病気になって健康であることの喜びがわかるように、疑いと戦うことを通して、神に信頼する喜びも湧いてくるのです。


2.神にゆだねる信仰は、自分の弱さを恥としない信仰である 

「 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き/憐れんで、わたしに答えてください」(7節)。

 ここでダビデは、神に憐れみを求めています。

「御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。・・・救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください」(9節)。

 このような祈りは、ダビデが、不安で弱気になっていることを表しています。「怒ることなく」という言葉は、自分が神の助けを得るのにふさわしいのだろうか、との疑いが生じたことを表しています。

  • ここには、「わたしは誰を恐れよう」というあの強さはありません。
  • ここには、「わたしは誰の前におののくことがあろう」という大胆さもありません。


 私たちの信仰は、弱いのです。ダビデは、神から見捨てられる不安を感じたかも知れませんが、その心配は私たちにはありません。私たちには、私たちの罪のために十字架にかかって下さった主イエスがおられます。神は、私たちを義としてくださるかたです。私たちは、イエス・キリストのおかげで罪赦されています。神の子とされています。神の怒りを恐れる必要はありません。また信仰の弱さを恥じる必要もありません。信仰の弱い私たちを神は助けて下さるからです。否、私たちの弱さに対して、神の力が発揮されるのです。


 だから、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(コリント二12:9)と使徒パウロは述べています。


 先週の説教でもお話ししましたが、ユダの国にヨシャファトという王様がいました。歴代誌下20章です。皆さん、是非、歴代誌下20章を自分で読んでみて下さい。彼の治世に、モアブ人とアンモン人がユダの国に対して、戦いを挑んだのです。しかも大軍です。自分たちには迎え撃つ力がないのです。どうしたらよいか。彼は、神を仰ぎ、神に助けを求めるのです。


 そのために、民を集め、断食し、祈るのです。祈りって当てになるのか、人は思うかも知れません。隣の国あるいは強い国に応援を頼むという手があります。目に見える現実的な助け、たとえばエジプトに軍隊を派遣してもらった方がよいのでは、と考えることもできます。しかしヨシャファト王は、神に祈り、神にゆだねるのです。神にゆだねる信仰は、自分の弱さを恥とせず、神に助けを求める信仰です。


 神にゆだねるとは、自分の弱さを認めて神に信頼するのです。自分の弱さを本当に認めることはプライドが邪魔して難しい面もあります。プライドを捨てれば、自由な気持ちで神に信頼して生きることができます。


3.神にゆだねる信仰は、神の導きを求める信仰である 

  • 神にゆだねるとは、すべてを神に任せ、自分は何もしなくてよいということではありません。
  • 神にゆだねるとは、自分の分別を捨て、自分の力に頼るのをやめることです。その代わりに、神がしなさいと命じることをするのです。

 ヨシャファト王の祈りに神は答えます。神は、一人の人を通して語るのです。

「この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。明日敵に向かって攻め下れ」。

 神は命じるのです。「明日敵に向かって攻めなさい」。神にゆだねるとは、神の導きに従うことです。


 祈ったら神が導きを必ず示してくれるのか、という疑問を持つ人もおられるでしょう。神に導きを求めたが、与えられなかったという人もいるでしょう。この点については、常に、神の導きを受ける訓練をすることが大事だということを覚えて欲しいです。神様は、あなたのことをよくご存じで、あなたの最善を願っているのです。神様は、あなたが神の導きを求めることを願っているのです。導きを与えようとしているのです。しかし私たちは、普段は、自分のやりたいようにしていて、困った時に助けを求めがちです。神の導きを受け取るアンテナがさびないように、磨くことも大事なのです。


 神の導きがわからなかったら、神の導きを受け取って生きている人に相談するとよいと思います。


 自分の弱さ故、神に信頼しつつも、不安におそわれます。しかしダビデは告白します。

「 わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを」。

 神にゆだねた結果として、神の恵みが与えられることを信じると告白します。神の恵みを彼は何度も経験したのです。そして今一度言うのです。

「主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」。

♪♪♪ 待ち望め、主を。雄々しくあれ、心を強くせよ、待ち望め主を ♪♪♪


 神を賛美しつつ、神にゆだねる信仰に生きていきましょう。世間では、信仰は、深入りしない方がいいという人もいます。しかし中途半端な信仰は役に立たないのです。


 最後に問題。あなたが健康診断を受けて、医師が、難しい顔をして、再検査を受けて下さいと言いました。平気ですか。心が騒ぐなら、どうしますか。神にゆだねるにはどうしたらよいでしょうか? 祈ります。


祈り

天の父なる神様
あなたは偉大で、私たちはまことに小さき者です。
あなたにゆだねることを教えて下さい。
私たちは自分の分別に頼ります。
自分の分別の頼りないことを教えて下さい。
聖書から、あなたの導きを受けて歩む者として下さい。
「御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯です」との言葉の通り、あなたの御言葉に、人生をゆだねることができますように。
私たちを憐れみ、私たちを導いて下さい。
イエス・キリストのみ名により祈ります。