クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.11.8)
聖書 エレミヤ 9:22〜23 目覚めて神を知る信仰


 カトリックの司祭、ヘンリーナウエンさんは「闇への道、光への道」という本で、老いを生きるとは、光から闇に向かうことだと語っています。同時に、老いを生きるとは、闇から光に向かうことだとも語っています。老いを生きるとは両方の面があるということですね。


 老人が直面する闇の一つは、親しい人が死んで寂しくなるということです。伴侶が亡くなり、人生の友人が亡くなり、ひとりぽっちになってしまうのです。話す相手もなく、話すことなしに一日が過ぎてしまう。今更、親しい友を作ることも考えにくいのです。


 こういうことは突然、思いがけない時に起きます。あるいは突然病気になったり、突然災難に見舞われたりします。どうしたらよいのか途方に暮れたり、嘆き悲しむ日々が続いたりします。そんな時には神を恨む人も出てきます。


 人生には不測の事態が起きて、私たちを不安や混乱に陥れるのです。そんな時こそ、神は私たち一人一人を愛する慈しみに富む方であり、私たちの人生を支配する「主」であることを知りたいのです。不測の事態を嘆かず、それを受け入れ、神の導きを求めて生きていきたいものです。今日の聖書から神を知ることを学びたいと思います。


1.人は不測の事態に直面する 


 聖書には、思いがけない事態に直面して、嘆き悲しむ人が登場します。ヤコブです。創世記に登場する人物です。彼は思いがけないことを何度も経験します。その中でも一番の出来事は愛する息子の死です。


 ヤコブには二人の妻がいました。ラケルとレアです。姉妹です。ヤコブは妹のラケルを愛しました。ラケルとの結婚を願います。ラケルの父は、姉を差し置いて妹を結婚させるわけにはいかないと、まず姉のレアと結婚させるのです。


 レアはヤコブの子を産みますが、愛するラケルは子をなかなか産みません。二人の姉妹の間でヤコブの子を産む競争をします。レアは、四人息子を生みます。ヤコブが年を取ってからラケルは、子を産みます。ヨセフです。ラケルはさらにもう一人子を産みますが、お産で死にます。子供と引き換えに愛する妻をヤコブは喪います。ヨセフは年を取ってから生まれた子なので、ヤコブは特別に可愛がります。ヨセフの兄たちは、ヨセフを妬み、憎みます。そしてある時、兄たちは、ヨセフを奴隷として売り飛ばします。兄たちは、雄山羊を殺し、その血をヨセフの着物につけ、父のヤコブに、その着物を見せるのです。


 ヤコブはヨセフが野獣に食われてしまったと思い、何日も嘆き悲しむのです。愛する子を突然失い、年取ったヤコブは悲嘆に暮れます。わが子を失うという不測の事態に直面してヤコブは死さえ願います。 やがて飢饉が訪れ、ヤコブの家族は、窮地に陥ります。食糧を確保しなければなりません。そこでヤコブは、息子たちにエジプトに行って、穀物を買ってくるように命じます。


 エジプトに売られたヨセフは、神の不思議な導きでエジプトの大臣になっています。そして、穀物を買いに来た兄弟たちと出会います。兄たちは、エジプトの大臣がヨセフだとは気づきません。ヨセフは、兄たちを敵の回し者だと、言いがかりをつけるのです。そして、兄の一人を人質に取り、ヨセフの弟を連れてくるように命じるのです。そうすれば無実を認めるというのです。


 以前の兄たちは、弟ヨセフが一人いなくなっても平気だったのです。兄たちは今、一人を人質としてエジプトに残して帰るわけです。兄たちがそのことに心の痛みを感じるかどうか、ヨセフは見ようとするわけです。兄たちが兄弟の一人を見捨てても平気であるかどうか、確かめようとするわけです。


 兄たちは帰り、父のヤコブに事情を話します。ヤコブは息子が一人戻らなかったことをまた悲しみ嘆きます。この上、もう一人子を失うことに耐えられないヤコブは、兄たちにエジプトに行くことを認めませんでした。


 再び、飢饉が起きて、ヤコブの家族は窮地に陥ります。ヤコブの息子のユダは、ヨセフの弟を連れて行くことを父に願います。ヤコブは言います。「では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。 どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい」。


 悲しみの決断です。兄たちがエジプトに行き、色々あって、エジプトの大臣がヨセフであることがわかります。
感動的な物語が繰り広げられるので是非創世記を読んで欲しいと思います。家に戻った兄たちは、ヨセフが生きていることを父に報告します。信じられないと思っていたヤコブでしたが、喜びに包まれます。


 人生には不測の事態が起きて、私たちを絶望の淵に突き落とすようなことが起きるのです。具体的な例としてヤコブの話をしました。


 わたし自身は、まだそのようなことを経験していませんが、年老いてから、思いがけないことが起きるのです。どうしたらよいのか、途方に暮れます。それが老いの現実だということですね。


2.神を知るということ 


 人間は、誇りなくして生きてはいけません。自分が自分らしくある、それが誇りです。人は自分がないがしろにされると憤りを覚えます。誇りを傷つけられるからです。

「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな」(22節)。

 思いがけないことが起きて苦しみ、悩み悲しむ時、富や知恵は支えにならないのです。役に立たないのです。ですから富や知恵を誇るな、というのです。

 「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを」(23節)。

 そこで神は、「主を知る」ことを誇りとしなさいと命じます。神を信じることではなく、神を知ること、です。神を知ることが支えとなるのです。


 使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で、エフェソ教会の人たちが聖霊に導かれて、神を深く知るようにと祈っています。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように」。


 神を知ることはとてつもなく大切なことなのです。だからパウロが祈っています。神を知るとはどういうことでしょう。


 「神について」知ることと「神を知る」ことの区別をまず知らなければなりません。この違いわかります?


 「神について」知るとは、聖書を読んだり、説教を聞いたり、人の話しを聞いたりして、神とはどういうお方であるかを知ることです。長年、聖書を読み、礼拝で説教を聞いている人は、神について、よく知っています。これは単なる知識です。


 神を知っている人は、自分の体験から、神がどういう方であるかを語ることができます。つまり神について証しをすることができます。神を知っている人は、神を畏れ、敬うことが態度にはっきり現れます。神を知れば知るほど、神を畏れ敬うようになります。神が、私たちの人生を導く主であり、慈しみと恵みに富む方であると知れば知るほど、神に対する信頼も深まります。


 私たちには、神が聖書が告げる通りの方であるとわかる体験があります。こういう体験を積み重ねることによって、私たちは神を深く知るようになります。こうして神が本当におられることがわかり、神を畏れ敬うようになります。


 普通は、聖書を読んで、あるいは説教を聞いて、神がいかなる方かを知ります。これは「神について知る」段階です。


 次に、神がそういう方であると信じて、行動する時に、やっぱりそうなんだ、聖書で言っている通り、説教で聞いた通りだったという経験をします。


 神を知るとは、神を愛し、神の心を大切にすることです。神の心を大切にするから、神の言葉に従って歩みます。つまり神を畏れ敬います。そのようにして神を知ることを誇りとしなさいというのです。


 私たちは神を信じていても、神について知っていても、神を知らないことが多いのです。神を知っている人は、神様はこういう人です、と証しをすることができます。そして自分の経験を話すことができます。神を知ることは素晴らしいことなのです。


 そして老いの時期こそ、神を知るチャンスに恵まれているのです。「目覚めて神を知る」とあります。「目覚めて」と訳された言葉は、「理解する」という意味です。ぼんやり物事を見ていないで、神の働きのあることに気づくことを意味します。


 今午前の祈祷会に新しい方が来ています。未信者です。Mさんの友人です。Mさんが友人を誘ったから、その方が来ているわけです。この出来事の背後に、神の働きを私は見ています。未信者の彼が発言することによって、祈祷会の場に刺激が与えられるのです。この方を通して、神は何をなさろうとしているのか、私はとても興味津々です。


 元町教会を神様が顧みてくださっていることがわかります。日常の小さなことの中にも、神の顧み、神の恵みに気づき、神を知っていくのです。そのことは、本当に誇りうることなんだと聖書は告げています。


3.老いは神を知る恵みの時 


 思いがけないことが起こります。親しい人が亡くなる、伴侶が亡くなる。急病になる。住み慣れた場所から離れなければならなくなる。どうしたらいいの、と戸惑います。悲しみ嘆いたりします。


 その時、これは大変だ、これは問題だ、何とかしなければいけないと人は考えます。そして、神様、導いて下さい、何とかして下さいと祈ります。導きが与えられないとやきもきし、いらだちます。思いがけないことが起きたら、これは問題だ、何とかしなければいけないと思い詰めないことです。むしろ、ここに何か、神の計画があると考えるのです。神の計画があることに目覚めるのです。思いがけないこと、それは神からのしるしなのです。


 ヤコブは息子のヨセフが獣によってかみ殺されたと思って悲しみ、嘆きました。ヤコブは後にヨセフと再会し、喜びのあまり、私はもう死んでもよいと告白します。ヤコブとヨセフの身の上に起きた一連の出来事には、実は神の働きがありました。神の計画がありました。神は飢饉に備え、あらかじめヨセフをエジプトに送り込んだのです。ヨセフはそのように受けとめ、自分を売り飛ばした兄たちを赦しました。私たちの身に起きる出来事には、神様の計画があることを、ヨセフの物語は教えています。


 私たちの身に何が起きても、私たちは神の導きの中に置かれているのです。そのように信じる時、私たちは望みを持って生きていく力が与えられるのです。私たちを生かす神を知るのです。


 老いの時期は辛い時期となることが多いでしょう。しかし、嘆き悲しむのではなく、あるいは人生こんなものとあきらめるのではなく、神を仰ぐのです。その時、私たちを生かす神様と出会うのです。神こそ私たちの人生を導く主なのです。老いは神を知る恵みの時なのです。こうして神を知る知識が豊かになるのです。


 神は老いた人に、神のために働くように語りかけるかも知れません。アブラハムも、モーセも年老いてから、信仰の冒険をしたのです。この世の働きから隠退した方は、目覚めて神の呼びかけを聞くことも大切なことです。


祈り


 天の父なる神様、あなたが真の神であられることを教えて下さい。
順風満帆な人生を送る時、私たちは、あなたを忘れがちです。
苦難の時、試練の時こそ、あなたを知る恵みの時です。
老いの時期こそ、信仰の実りが与えられる時です。
また若い日に造り主を覚えなさいと教えられます。
若き日に、あなたを知り、老いを恐れることなく、闇から光に向かう老いを生きることができるように導いて下さい。
イエス・キリストのみ名により祈ります。