クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.11.22)
聖書 マタイ 10:32〜33 柔軟な信仰


 ある人が人間を蝶の毛虫にたとえました。蝶は毛虫からさなぎ、そして蝶になってこの世界に飛んでいきます。ところが人は蝶になろうとせず、毛虫のままでいようとするというのです。つまり、老いを認めず、いつまでも若くあろう、若くあろうと様々な努力をする人が毛虫にたとえられているのです。老い、それは、蝶として羽ばたくときでもあるからです。老いの時期には、老いの時期の人生の実りがあるので、それを求めたらいいのではないか、というのです。


1.弱さを知ることから生まれる柔軟さ 

「 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(33節)。

 ここで「人々の前で私を知らないと言う者」とあります。ここで思い出すのは主イエスの弟子のペトロです。主イエスが十字架にかかる前の夜、主は弟子たちと一緒に食事をしていました。その折、主イエスが「今夜、あなた方は皆、わたしにつまずく」と弟子たちに告げました。弟子たちが主イエスを見捨てる事になると告げたのです。


 するとペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いました。他の弟子が裏切っても、自分は絶対裏切らないとの強気の発言です。主イエスが言われたとおり、主イエスが逮捕されると弟子たちは皆イエスを見捨てました。ペトロもです。逃げたペトロは、しかし、後をつけました。そしてイエス様が裁判を受ける場面を遠くからみていると、「あなたはあの人と一緒にいた」と声をかけられるのです。そしてびっくりしたペトロは思わず、「あの人は知らない」と答えてしまうのです。このようなことが三度繰り返され、ペトロは主イエスの事を知らないと三度も言ってしまうのです。


 ペトロはうぬぼれていました。堅い棒は、強い力でぽっきり折れてしまいます。そのように強気のペトロはイエス様を裏切ってしまいました。ペトロの固い決意はあっけなく崩れてしまいました。釣り竿は柔軟です。しかし強い力で引っ張られてもたわんでしなって、その力に耐える事ができます。釣り竿は決して堅くなっていません。


 自分の弱さ、無力さを知る、それは人としての柔軟さにつながります。つまり、柔軟であるので、様々な力に耐えることができるということです。老いた人は、弱さ、無力さ、限界を感じるものです。そのため老いた自分を悲観したり、卑下したりしかねません。動作が遅くなり、物覚えも悪くなり、言いたい事がすぐ口からでなくなったり、何を言いたいのか忘れ、愚痴を言ったり、同じことを繰り返し話したり、そして人から疎んじられるようになったりします。そして引け目を感じたりします。年をとらなければこんな事にはならないのに。悲しいですね。嘆きたくもなります。


 しかし、このような現実を受け入れていくところに、実は柔軟さからくる強さが生まれるのではないでしょうか。そして実りある老いの時期を送ることができると信じます。


 私も年をとり、疲れを覚えるようになりました。若い時のように、あれをして、これをしてと思い通りにしたいことができなくなりました。そのことを嘆くこともできます。北アルプスのような高い山に登ることはもうできないな、と残念に思う気持ちになります。しかし、若いからできなかったことができるようになります。身近なところでできる一つ一つを大切にしていくことです。若い時、壮年の時、つまり元気な時は、あれをしよう、これをしようで忙しく、聖書を読むことや、祈ることに時間をなかなかとりません。しかし老いれば、時間がたくさんあります。ゆっくり時間をとって、聖書を思い巡らす、あるいは祈ることができます。


 私は、ちょっとした時間に、鉢に植えている何種類ものスミレを観察します。そこに発見があります。同じスミレでも、毛虫に好かれるスミレとそうでないものがあります。寒くなってきた今でも、種をまき散らすものもあるし、そうでないものもあります。それぞれ個性があり、その個性を生きています。自分は自分でいい、そう教えられます。


 老いてきたからできることがあり、そして生きることを楽しむこともできます。できなくなったことを嘆かず、できることを喜んでいく柔軟さ、それが大切なのだと思います。


2.信仰によってありのままを受け入れる 


 老いた自分のありのままを受け入れることは簡単なことではありません。老いと共に、体の衰え、記憶力の低下、病気、寂しさ、忍耐しなければならないことが増えていきます。先行きの不安もあります。若いときから比べれば情けないような自分を受け入れることは惨めに思えるかもしれません。そこで、現実を嘆いて悲しみの日々を送るのか、これを受け入れて新しい思いで生きていくのか、選ばなければなりません。


 「神様はありのままを受け入れてくださいます」。「お互いのありのままを受け入れ合いましょう」。ありのままを受け入れられることは、ありがたいことです。しかし、他ならない自分が、自分を受け入れられないということがおきるのです。


 今、私は妻の母と一緒に生活しています。母は結婚して以来60年以上も住み慣れた地を離れ、金沢に住むこととなりました。住み慣れた地に帰ることはおそらくありません。この現実を受け入れることに母も苦労したようです。


 私たちには、様々な「ありのまま」があります。「ありのまま」を受け入れる、簡単なことではありません。しかし、ありのままを受け入れることが困難なのは、老いの時期に始まることではありません。それは、私たちが生まれたときから始まっていると言えます。子供は親を選べません。ありのままの現実の親を自分の親と受け入れるほかありません。そして自分の能力、性質、外見、あるいは自分の置かれた境遇など、受け入れるべきものがたくさんありました。私たちはいつも、ありのままの現実を受け入れて生きるか、受け入れないで不満を持ちながら生きるか、選択しています。


 信仰は、ありのままの自分を受け入れることの助けとなります。イエス・キリストが十字架にかかったという出来事は、神がありのままの私たちを受け入れてくださったことを意味しています。イエス・キリストを信じる者を神は赦し、神の子として愛し、受け入れてくださると聖書は告げています。

 まず、神が私たちを受け入れてくださっていることが大事な点です。そして次の点も大切です。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント二12:9)。

 私たちは弱さを誇ることができるのです。神の力が現れるからです。さらに

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)。

 神は、すべてのことを益となるようにしてくださるという約束です。私たちはこの約束に、身をゆだねるのです。人生を賭けるのです。私たちは保険をかけて安心を買うことがあります。しかしお金で買える安心は限られています。万事を益としてくださる神の約束、これこそが人生における保険です。


この神の約束を信じ、私たちが自分自身を受け入れていくとき、私たちは柔軟な信仰者にされていきます。ポキッと折れることなく、何が起きてもしなやかに、受け止める人生を送ることができるようになります。


3.できることを発見して生きる


 聖書に戻ります。 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。


 この聖書の箇所は、私たちがキリストとの関わりをもって生きているかどうかを問題にしています。主イエスが、「私も天の父の前で」と述べているのは、最後の審判の時のことを指しています。キリストは、十字架にかかって、私たちを救ってくださいました。またキリストは、私たちに教えてくださる方です。何を信じ、どのように生きたらよいのかを教えてくださる方です。


 年老いても、ただの老人として生きるのではなく、クリスチャンとして老いを生きることが大切となります。キリストに頼って老いを生きるのです。イエス・キリストの言葉に頼って生きるのです。聖書に頼って生きるということです。聖書に、本気になって頼るということです。


 老いは惨めだという人がいます。老いた人は、体力がない、することがない、楽しみがない、死が近いというのです。これは真実でしょうか。老いても、私たちには、することや楽しみはたくさんあるのです。寂しいときは、寂しいと嘆くのではなく、共にいてくださる神に祈るのです。


 クリスチャンには果たすべき大切なことがあります。祈りです。これは体力がなくてもできます。この世界には不幸がたくさんあります。人々が平和で幸福に生きることができるように執り成しの祈りをすることができます。新聞を見れば、執り成しの祈りの材料に事欠きません。執り成しの祈り、これはとても大切で尊い働きです。さらに身近な家族のためにも祈ることができます。


 時間を気にせず、神様と交わりながら祈る、これは贅沢な営みです。心を静め、祈り続けていくとき、心が清められていく実感を持つこともできるでしょう。病院に行ったら、そばにいる人のために祈ることができます。


 自分のできることを発見してそれを行っていくのです。さらに聖書から神の約束を読み取って、それを楽しみにするのです。約束の実現を喜べるなら、それは本当に喜ばしい喜びです。


 そして、私たちは、老いた人と共に生きる教会を目指したいです。特に、経験を分かち合いたいです。弱さを分かち合って、共に祈ることができます。経験を分かち合って、知恵を得ることができます。交わりを持つことによって、互いに敬い、励まし合うことができます。


 お年寄りには分かち合える経験がたくさんあるはずです。経験があるということは尊いことです。問題に直面すると、経験のない人は心配し、思い煩いますが、経験のある人は、そんなに心配しなくていいよ、こうしたらいいよ、と語ることができます。お年寄りの経験、知恵が生かせるような交わり、そこに聖書の言葉があれば、信仰に生きることの幸いが実感できます。愛の教会が築かれていきます。


 自分の弱さ、無力さ、限界を受け入れる、それは人としての柔軟さにつながります。神に信頼するようになるからです。神への信頼、それがどんなことも受け入れ、また対処していける柔軟さになります。
釣り竿のように、どんなに強い力をもしなやかに受け止める柔軟さ、信仰から来る柔軟さを身につけて生きていきましょう。


祈り

イエス・キリストの父なる神さま、あなたをたたえます。
私たちは小さくて弱い者です。
老いれば、そのことが現実となり、この現実におじまどうものです。
悲観し、落胆し、気むずかしい老人になってしまいそうです。
神様、私たちを哀れみ、教えてください。
弱いが故に、耐えるしなやかさ、柔軟さがあることを。
そしてキリストによって、果たすべきこと、できることを発見して、生きることができることを。
天の父、老いの中にある人たちを励まし、慰めてください。
小さなことでも、クリスチャンとして行動できたことを喜ぶことができますように。
小さなことにも、クリスチャンとして感謝することができますように
そしてあなたをいつもたたえていくことができますように
イエス・キリストの御名により祈ります。