クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今日は、地区の信徒大会があった。興味深い講演を聞けてよかった。テーマは

「異教、異文化の中でのキリスト者の課題」。

日本人にとってキリスト教は難しいのか、という問題意識に基づく講演。日本人にとって、唯一神、創造主なる神を理解することが難しい、従って罪理解、贖罪の理解が難しい、そして教会についての理解が難しいという現実がなぜ起きているのか、日本人の精神的伝統について話が及ぶ。


 日本人の神観念の特徴の一つとして次のものがある。様々な場所、事象に関わる神がいて、それぞれの場所、事象の安穏を守護するという神理解である。そういえば鎮守の森というのが、村ごとにあるよな。秋になれば、収穫を祝って祭りをするような。祭りとは、収穫を与えてくれる神をマツルこと。太宰府八幡宮には、菅原道真がまつられているが、学問の神、ひいては受験する学生を祝福する神となる。聖書が告げる人格神とは全く違う神理解だ。


 そういう精神的な伝統から、次のような考えが生まれるとのこと。

  • 人間は自然の成り行きとして生まれ、死ぬ、世界はその繰り返し。古代日本人の世界観。
  • 自然の中でよしとされる明るい清い心を持てば、食糧を得られ、繁殖することができる。

 古代日本人の世界観とはいえ、現在の日本人の意識でもあるという講演の趣旨であったと思う。人間は自然の成り行きとして生まれ、死ぬ、となれば、死の恐れもある意味問題とならない。人は死の何を恐れるのか、というとき、死ぬときの、あるいは死に至るまでの間に経験する苦しみを恐れるという。聖書が人間は死の恐怖の奴隷となっていると言うときの恐怖は、それとは違う。自分の存在が死によって無と化し、世界から見捨てられるという恐怖である。日本人は死について楽観的な考えを持っていると僕は感じているが、腑に落ちた講演だった。

 北陸の地は、浄土真宗が盛んな地であるが、念仏を唱えれば救われるという考えは、キリスト教の罪理解を理解させにくくしているとも。これもなるほどと思う。念仏さえ唱えればよいと言うとき、罪について細かく詮索する必要はない、となる


 その後、食事で、交わりの時を守った。参加した教会から、教会の近況を語る一言短い話がなされる。その時必ず、何人で出席したという報告がある。僕はこの報告が嫌いだ。少人数の参加者の教会に肩身の狭い思いをさせるからだ。そんなの狭い見方だという人もいるかもしれない。県内にある諸教会の様子は皆知っているし、あの教会からこれだけの人が来たよかった、この教会からはこれだけの人しか出席できなかった、いろいろ事情があるのだろうな、祈ろう、そういう気持ちになればいいのに、と言う人がいるだろう。これは正論であるが、受け入れたくない。狭い了見だと言われても甘んじて受け入れる。