クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.11.29)
聖書 コリント二 1:3〜7 神の慰めに生きる


 自分のことで恐縮ですが、日曜日の午後、繁華街に行ったりすると、神様など信じなくても幸福に暮らせるよ、と人々の姿が私に語りかけてくるように感じて、空しさを覚えることがあります。伝道者は、ある意味、空しさと戦うわけですが、どんな慰め、励ましを受けて、今一度立ち上がることができるのか、と考えることが時々あります。慰め、励ましがほしいのです。


 老いの時期は、悲観材料が多いので、いかにして慰めを受け取るかは、大切な課題です。聖書では、慰めを意味するギリシャ語は、パラクレーシスと言いますが、励ますという意味も持っています。ですから、慰めを受けるとは、生きる希望を持って立ち上がることを意味します。慰めは積極的なものです。


1.神の慰めは完全です 

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」(1節)。

 パウロは、慰めを豊かにくださると言って、神をほめたたえています。これはパウロの経験から生まれた証しです。パウロは神の慰めを何度も受け取ったので、神のことを、慰めを豊かにくださる方だと述べています。パウロは、慰めを豊かに与えてくださる神を経験しているのです。

「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」(4節)。

 これはちょっと驚きますね。パウロは、神が「あらゆる苦難」に対して慰めてくださると断言しています。どうして「あらゆる」という言葉を使うことができるのでしょうか。一人の人間は、すべての苦難を経験することはできません。一人の人間が経験する苦難は特定の限られたものです。それなのにどうして、「あらゆる苦難」に対して、神は慰めてくださると断言できるのでしょうか。


 コリント二11章を読むと、パウロが直面した様々な苦しみが書かれています。パウロは人の何倍も、何十倍も様々な苦しみを受け、かつ神から慰めを受けていたので、「あらゆる苦難」に対して神は慰めを与えてくれると断言できたのだと思います。さらに神には慰めることができない苦難はないという、信仰的な確信もあったと思います。そのように断言できるほどにパウロは、慰め・励ましを与えてくれる神を経験していたのです。自分は神をどんな方と経験しているのか、思い巡らすように導かれます。

「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(4節)。

 私たちが苦難に遭い神から慰めを受けるなら、苦難の中にある人を慰めることができると告げています。私たちが苦難に遭い、神から慰めを受けるなら、それは他の人に慰めを与えることにつながるというのです。私たちの苦しみが他の人にとって益となるというのです。わたしたちは苦しみに遭う時、自己憐憫に陥るのではなく、神からの慰めを受け取り、他の人々を必要に応じて慰めることのできる者になるという約束が書かれているのです。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(エフェソ4:29)。

 苦難にあって神から慰めを得る時、わたしたちは他の人を造り上げるのに役立つ言葉、聞く人にめぐみが与えられる言葉を語ることができるというのです。このことは、苦しみに直面する時、勇気を与えてくれる言葉ではないでしょうか。苦しみに意味が与えられます。


 4節の後半も驚く言葉が書かれています。私たちが神からいただく慰めによって、「あらゆる苦難」の中にある人々を慰めることができる、というのです。私たちの常識では、同じような辛い経験、同じような苦しい経験をした人になら、相手の気持ちに共感でき、慰めや励ましの言葉を語ることができる、と思うことができます。しかし、「あらゆる苦難」の中にある人を慰めることができるというのは、驚きです。わたしたちは聖書を正確に読むことが大切です。


<あらゆる苦難の中にいる人を慰めることができるというのは、いろんな苦難を経験したパウロだからそういうことが言えるのであって、私たちにはそんなことは言えないし、わたしたちは「あらゆる苦難」の中にある人を慰めることはできない>。


 これはもっともそうな言葉ですが、聖書が語っていることとは違います。もっともそうな言葉を信じていくと、聖書からいつの間にか離れてしまうのです。そして不信仰に陥ってしまいます。神から慰めを受けた人は、あらゆる苦難の中にある人を慰めることができるという聖書の言葉を真剣に受けとめることが大切です。


 わたしたちは人を慰めようとして、相手の気持ちに深く寄り添うことなく、安易に慰めの言葉を言ってしまうことがあります。そんな経験を重ねると、慰めの言葉を語ることは難しいとなってしまいます。確かに簡単ではないと思います。しかし神の慰めは完全で、私たちが神に用いられて語る時、「あらゆる苦難」の中にある人を慰めることができると聖書は告げているのです。このことを信じましょう。

「わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。

 慰めを語ることに臆病になってはいけないと思います。自分が神から受けた慰めを語りつつ、神が相手の心に語りかけてくださることを信じるのです。


2.どのように慰めを経験するのか 


 苦難の中にある人たちはどのようにして慰めを経験するのでしょうか。8節以下でパウロは、生きる望みさえ失うほどの苦難にあった時、神に頼り、神から救われた経験を述べています。「そして神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」(10節)。


 パウロが信じている神は、生きて働かれる神であること、そしてこの神に希望をかけることができる、そのことがパウロにとっては慰めであり、励ましとなっています。つまり神への信頼が、慰めの源となっています。


 聖書には、パウロの手紙がいくつもあります。パウロは、宛先となる教会に問題が起き、その問題に対する指示を伝えるために手紙を書きます。パウロは自分の伝道によって築いた諸教会の様子が心配なのです。弟子のテモテやテトスがそれらの教会を訪問し、その様子をパウロに伝えた時、パウロは慰めを受けています。うれしい知らせを聞くことによって慰めを得ています。わたしたちは、神様の働きや、自分のしていることが無駄ではないと知ると、慰め・励ましを受けることができます。自分のささやかな働きの中に、神様が働いてくださっていることに気づく時、伝道の空しさに囚われないで、励もうという慰め、励ましを受けることができます。


 また私たちがしばしば経験することは、聖書の言葉による慰め、励ましです。これについては、あまり語る必要はないと思います。多くの人が経験しているからです。聖書には、私たちを励まし慰める言葉がたくさんあります。私たちの状況に応じて、励ます言葉が聖書にはあります。


 またわたしたちは祈りを通して、慰め、励ましを受け取ることができます。パウロは、この点でよく祈ったのだと思います。彼はとらえられて牢獄に入れられても、神を賛美し、祈っていました。旧約聖書のサムエル記には、思い悩みの中で心を注ぎだして祈ったハンナいう女性のことが書かれています。彼女は子供ができないことで人から責められ苦しんでいました。そこで彼女は祈ります。心を注ぎだして祈ります。祈り終わった後、彼女の表情はもはや前のようではなかったと聖書は告げます。


 私たちは、祈ることによって、聖書によって、神が働いてくださることによって慰め、励ましを受けることができます。


3.苦難についての考え方を転換する 


 苦難に遭うことは誰でも避けたいことですが、苦難をどう考えるかは大切なことです。

「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」(5節)。

 ここでパウロは、私たちの苦しみ、それはキリストの苦しみが満ちあふれて私たちに及んだもの、と述べます。私たちの苦しみをキリストに結びつけています。

  • 自分の苦しみは自分だけの苦しみではないのです。
  • 自分だけが、苦しんでいるのではないのです。
  • キリストの苦しみが満ちあふれて私たちに及んでいるというのです。


 ここには苦しみについての考え方の転換があります。苦しんでいる自分だけに目をとめるのではなく、キリストも同じ経験をされたという事実に目をとめるのです。あなたと同じ苦難を経験した人たちの背後にキリストがおられるというのです。そこでキリストが、あなたと同じ苦しみを味わっている人たちに仕えなさい、と呼びかけているのです。


 私と同じ苦しみを味わっている人たちが他にもたくさんいるのです。もし私がこの苦しみに対して神から慰めを受け取ることができるなら、この慰めを持って他の人を慰めることができると考えるなら、どうなるのでしょうか。わたしの苦しみは、神に用いられるための一つの材料なのです。


ですから聖書にこうあります。

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(ペトロ一4:12)。

「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど」とあります。与えられた苦しみをキリストの苦しみを経験することだと考えるのです。キリストが苦しんでいる苦しみを私も一緒に苦しむと考えるわけです。イエス神の国の福音を宣べ伝えても、反発した人々はイエスを十字架につけたし、弟子たちもイエスを見捨ててしまいました。福音を伝えることは、いつでもうまくいくことが保証されているわけではなく、困難があることを知る時、空しさと戦う忍耐と、キリストと苦しみを共有する喜びを私は与えられます。


 苦しみについての見方を転換する、これは信仰者に与えられた恵みです。神様を知らない人は何で自分はこんなに苦しむんだと不満を外に向けたり、自己憐憫に陥りますが、信仰者は違います。ここに信仰に生きる人の光栄と幸いがあります。そうです、私たちの苦しみ、私たちが与えられる神からの慰めは、他の人の救いにつながるのです。

「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります」(6節)。

 私たちは一人で悩み苦しみ、嘆き悲しむのではないのです。わたしたちは苦しみの経験、慰めの経験により、互いに励まし合う、慰め合う、そして生きる力、勇気を与え合う交わりの中に生きているのです。つまり教会の中に生きているのです。


 私たちは一人で生きるのではなく、人生を共に生きるように神に召されているのです。そのために信仰者になるように神に導かれたのです。教会のメンバーになるということは幸いなことなのです。互いに励まし慰め合う仲間がいるからです。そして共に神をたたえることができるからです。


祈り

イエス・キリストの父なる神様
私たちが味わう苦しみは、キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んだからだと聞きました。こんなことは今まで聞いたことがありません。しかし、だから、キリストの慰めもまた私たちに満ちあふれてくると教えられました。感謝です。
天の父、苦しみの中にある人を慰めてください。自分の苦しみは、あなたからの慰めを受けるなら、他の人を力づけることができるという大きな意味があることを知って、力づけてください。
そして教会が苦しみを分かち合い、慰め、励ましを分かち合うことができ、人生を共に生きることのできる教会としてください。またあなたを信じていない人たちをこの交わりへと導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。