クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.1.1)
聖書 ヨハネ 13:34 互いに愛し合ってこそクリスチャン


 新しい年を迎えました。2010年がどんな年になるのか、誰にもわかりません。すべての人が貧困、病気、戦争、飢餓から救われて喜びをもって生きることのできる年であるように祈ります。世界が、そのようになるために、大切なものは、愛です。他にも必要なものはあると思いますが、愛は欠かせないと思います。自分のことだけを考えるのではなく、他者を愛することが大切です。愛なくして平和は生まれません。そして「愛する」ことがどういう事であるかを知っているのは教会だけです。これは教会の思い上がりではありません。聖書にこう書かれています。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」(ヨハネ一4:7)。

 愛は神から出るもので、神から生まれた人が愛することができると書いてあります。イエス・キリストを信じ、神によって生まれ変わったクリスチャンだけが愛することが何かを知り、愛することができるのです。神を知らない人ももちろん人を愛することができます。しかしその愛には、限界があります。クリスチャンといっても、その成長の度合いによって、その愛には限界があります。完全に人を愛することができるのは、神だけです。あるいはイエスだけです。


 聖書が愛するというとき、それは相手を無条件に愛することを意味します。相手を無条件に受け入れるのです。相手の存在を尊び、喜ぶのです。相手が悪いことをしているとき、その悪を受け入れることはできませんが、その人は受け入れるのです。私たちは、罪を犯すにもかかわらず、神に受け入れられ、愛されています。神の無条件の愛です。だから、私たちも、無条件の愛で人を愛することを実践します。神を信じる人でないと、相手を無条件に愛することはむずかしいと思います。


 「愛する」ことがどういう事であるかを知っているのは教会だけです。教会に属する人々が互いに愛し合って、愛することがどういうことか、この世の人々に伝えていくことは大切で貴い働きとなります。このような教会の働きが全世界で盛んとなり、平和を生み出す力となることを願います。今日は、一年の初めに当たり、「互いに愛し合いなさい」というイエスの戒めに思いを向けたいと思います。


1.クリスチャンの本質 


 イエスは十字架につけられる前の晩、弟子たちと一緒に過ごしました。その時に、イエスは新しい戒めを与えると告げて、「わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられました。十字架につけられる前の晩のことですから、弟子たちに対して最後の教えを語られたことになります。その時イエスは、新しい戒めを与えると告げられたのです。弟子たちに戒めとして与えられたのはこれだけですから、重みのある戒めであることは間違いないと思います。この命令は、この後もイエスは繰り返します。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15:12)。

「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(15:17)。

 イエスはどんな思いでこの戒めを弟子たちに与えられたのかと思います。説明は省略しますが、クリスチャンは皆、キリストの弟子です。クリスチャンは、互いに愛し合うことをイエスから、新しい戒めとして与えられているのです。イエスが新しい戒めと言ったのは、旧約聖書にある戒めを意識してのことだと思います。旧約聖書に、つまり神がイスラエルの民に与えた戒めの中にこうあります。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)。隣人というのは、同じイスラエルの民を指します。同胞愛です。


エスは、イエスの弟子たちが互いに愛し合うことを新しい戒めとしました。イエスがどんな思いでこの戒めを弟子たちに与えられたのかを考えるときに、心に留めておきたいことがあります。


 たとえばマタイ福音書の山上の説教と呼ばれる箇所では、キリストの弟子として、つまりクリスチャンとして守るべき戒めがいくつも列挙されています。クリスチャンの生き方がいくつもの戒めで教えられています。しかしヨハネ福音書においては、クリスチャンの守るべき戒めが列挙されるということはありません。さらにヨハネ福音書においては、他のクリスチャンに対してどういう態度をとるかという戒めはほとんどありません。「互いに愛し合いなさい」とか「互いの足を洗い合いなさい」という戒めがあるくらいです。


 ですから、「互いに愛し合う」という新しい戒めは、クリスチャンの生き方を示すというより、クリスチャンの本質を示すものであると言ったほうがよいのではないかと考えます。クリスチャンというのは、つまりキリストの弟子というのは、互いに愛し合う存在だということです。この戒めを守ることはクリスチャンにとって必須であり、これを守らなければ、クリスチャンとは呼べない、と言うことができるくらいのものなのです。クリスチャンにとって、神を礼拝する、聖書を読む、祈ることが当たり前なように、そしてそれをしなければクリスチャンとは言えないように、互いに愛し合うことはクリスチャンには当たり前のことなのです。


 私たちはもしかしたら、互いに愛し合うことはクリスチャンの守るべき戒めの一つであるかのように考え、この戒めの受け止め方を軽んじてきたかもしれません。少なくとも以前の私はそうでした。でも教会とは何かを考えるにつれて、互いに愛し合うことこそ、クリスチャンの姿だと思うようになりました。


 「互いに愛し合う」という戒めについて、もう少し考えたいと思います。この戒めは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた我も互いに愛し合いなさい」となっています。弟子たちは、イエスに愛されているから、互いに愛し合いなさいと命じられています。弟子たちが互いに愛し合う理由は、彼らがイエスに愛されているからであり、愛されていることがうれしいので、互いに愛し合い、相手に愛される喜びを与えるのです。互いに愛し合うことによって、互いに喜び合うのです。


 どのように愛すればいいのか、それはイエスがなさったようにすればよいわけです。十字架につけられる前の場、イエスは弟子たちと一緒に過ごしていますが、夕食の時、イエスは、弟子たち一人一人の足を洗ったのです。足を洗うのは、奴隷、召使いの仕事です。そのようにしてイエスは弟子たちに仕えたのです。人の汚れた足を洗うというのは、普通したいとは思いません。互いに愛し合いなさいとは、互いに仕えるということです。


さらに、イエスは、

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」という言葉を繰り返しています(15:15,23)。
あるいは「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」(15:21)。

 イエスを愛している者はイエスの掟を守り、イエスの掟を守るものはイエスを愛していると述べています。つまり、イエスを愛するから、イエスの掟を守るということであり、掟を守るのはイエスを愛していることのしるし、イエスへの愛の現れなのです。弟子たちはイエスに愛され、イエスを愛するから、イエスの戒めを守るのです。ヨハネ福音書において、イエスの弟子は、イエスに愛され、イエスを愛する者であり、それ故、イエスの戒めを守る存在です。イエスに愛されていることを喜び感謝し、イエスを愛して生きることを自分のあり方として選び、イエスの戒めに従って生きることを喜ぶ、これがイエスの弟子なのです。


弟子はイエスへの愛を互いに愛し合うことによって現すのです。そしてイエスを信じる私たちもイエスの弟子です。


3.世に愛することを伝える使命


 イエスは弟子たちが、互いに愛し合い一つとなることを願っています。

「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(17:11)。

「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(17:22)。

 イエスの弟子たちが互いに愛し合うとき、彼らは一つとなります。愛し合う者同士が一つとなるのは、弟子に限ったことではありません。聖書は、夫婦は一体であると告げ、夫婦は愛し合って一つとなるのです。

「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(17:23)。

 弟子たちが互いに愛し合い、一つとなるとき、世の人々は、イエスを知るようになるとあります。弟子たちが互いに愛し合うのは、イエスを信じるからであり、イエスが上方遣わされた神の子であると世は知るのです。世の人々がイエスを知るようになるとき、彼らもまた、イエスを信じ、イエスを愛するようになり、互いに愛し合う弟子となっていきます。
このようにして、この世に愛が次第に満ちていくのです。争い、戦争が少なくなり、平和と喜びが満ちていくのです。クリスチャンとして生きることはこのことに仕えることです。この世に愛が満ち、平和がこの世を覆うことに仕えるのです。


 私たちが互いに愛し合うことを通して、この世の平和に仕えることができるなら、それはまことに光栄なことです。神に栄光のために生きることになります。私たちの生き方を通して、神が神とあがめられるようになるのです。教会に集う者たち、キリストにつながる者たちが互いに愛し合うことによって、教会は、この世にイエス・キリストを宣べ伝え、この世に愛を教えていくという大切な使命を果たすのです。


 最後に補足として述べたいことは、「愛することは難しい」と考える人が少なくないことです。牧師も「愛することは難しい」と語り、愛することを放棄する可能性があります。この点については、私たちは「愛する」ことを学び、「愛する」ことにおいて成長する者であることを知っておくべきだと考えます。


 赤ん坊はきわめて自己中心的な存在です。自分の欲求を満たすことだけを考えているかのようです。夜中だろうが、明け方だろうが、おなかがすいたら泣いて乳を求めるし、あるいはおむつの交換を求めます。母親の都合など少しも考えません。しかし成長するに及んで他者のことを考え、思いやりを発揮するようになります。成長するから、他者のことを考え、思いやることができるようになります。


 クリスチャンも、愛することにおいて成長することを知る必要があるし、成長して愛する人になることが大切なことです。愛することは決して難しくないのです。教会の中で互いに愛し合い、愛することを学びましょう。そして、家庭に戻って家族を愛しましょう。愛することの尊さを世に知らせていきましょう。祈ります。


祈り

 天の父、主イエスが私たちを愛してくださり、主を信じる私たちに永遠の命を与えてくださったことを感謝します。私たちもまた主イエスを愛して、主イエスへの愛の証として「互いに愛し合いなさい」との主の戒めを実践することができるように助け導いてください。どうか私たちが、愛することにおいて成長し、キリストにつながる信仰者たちが互いに愛し合うことができるように導いてください。教会からこの世へと愛する喜びが流れていき、この世に平和と愛が満ちあふれるように、教会の働きをあなたが支え、強めてください。イエス・キリストの御名により祈ります。