今日は午後、病床聖餐式。礼拝に来ることができなくなったお年寄りを訪問して聖餐式を行った。三人の女性長老が奉仕してくださった。お年寄りの方たちは、私たちがまだ経験していない領域を生きておられるので、尊敬の心を持つことが大切だ。昨日のブログで書いた教会報の文章を掲載します。昨年の九月に書いた文章。
神の家族の成長
(一)
八月末の選挙で政権交代が起きました。日本の歴史が変わっていくことでしょう。自民党が再生できるのかどうか、どのように再生していくのか、また民主党はどのようにマニフェストを実現していくのか、目が離せません。今回の政権交代には、感慨深いものが私にはあります。この国が「動く」という感慨です。政治を考える時、何を一番大事にする国家を築くのか、というビジョンが大切です。自民党のこれまでの政策、つまり企業を繁栄させ、その結果として雇用が増大し、国民が安心して働け、豊かな生活を送ることができる、という政策は成り立たなくなってきました。民主党が政権を取れたのは、国民の生活が第一というビジョンを示したからだと思います。
国民が安心して生活していける国にするためにはどうするのか、こういう視点が今後は必要になるでしょう。国民の生活が成り立たなくなれば、国は滅びるのです。 時代は変わっています。企業は生き残りを賭けて必死です。政治も何が本当に大事なのかを見失っては立ちゆかなくなります。
それでは教会はどうなのでしょうか。教会員の年齢は高齢化し、若者が少なく、このままでは確実に教会は立ちゆかなくなります。
これまでの教会のあり方はどのようなものだったのでしょうか。毎週礼拝を献げます。礼拝では福音が語られ、礼拝こそ伝道だと言われてきました。礼拝さえ守っていればそれで良いのだ、という意見もまかり通りました。伝道という点では、月一回の家庭集会、特別な伝道集会が行われ、信仰の養いという点では、週半ばの聖書研究祈祷会が行われてきました。
しかし伝道集会のために、一万枚のチラシを配っても来る人は指で数えることができるほど、音楽会を開催してより多くの人が集ったとしても礼拝にはつながらない、夫婦共働きが普通になり、祈祷会に出席するのは年配の人、家庭集会も働き盛りの人は集うことができません。教会の働きは、意義はあるとしても空回りしているのが現状ということもできます。世の中は変わっているのです。
第二次世界大戦終了後、日本にはキリスト教ブームが訪れました。戦争の時は、天皇中心の価値観でしたが、それが崩壊し、何を大事に考えて生きたらよいのか、価値観が曖昧となり、人々は心のよりどころを求めて教会に集ったのです。聖書の教える考え方、価値観が人々の心を惹きつけました。しかし今、状況は全くは変わりました。伝道集会を開催してキリスト教の素晴らしさを伝えるという伝道は有効に機能しなくなりました。教会にも考え方の上での変革が求められているのです。
(二)
この頃、私の頭の中にある重要な言葉は「成長」という言葉です。だいぶ前になりますが、洗礼を受けたばかりの青年にCS教師の働きをお願いしたことがあります。彼は言いました。「信仰者になったばかりの人間を教会は働かせようとする」。働き人が少ないからやむを得ないんです、というような思いを語ったことがあります。
私たちの心の中には一種の誤解があったのです。信仰者になったとたん、一人前の信仰者になるという誤解。人は信仰者としても成長するという考えは、当たり前ではなかったと思います。教会の中では、教会員への批判が当たり前のようにあります。批判が成立するのは、相手が一人前の信仰者になっているという前提があるからです。一人前になっているはずなのに、こうなっている、と批判がされます。神学校を卒業したての伝道者も一人前の牧師とみなされ、足りない点、欠点は批判されます。この誤解は、牧師も持っていて、教会員の未成熟さを嘆いたりします。そして人は信仰者としての自分をも批判し、責めます。自分は一人前の信仰者になっているのに未熟な点があるといっては、自分を責めたり卑下したりするのです。
成長というのは、目に見える形でいつも認めることができるとは限りません。気づいてみるといつの間にか成長しているものです。ですから礼拝生活を続けていれば、やがて成長するし、自分も成長してきたと考える方もおられるでしょう。そして実際に成長してこられたのです。しかし、私たちは成長を漠然と考えることはできません。成長というのは、キリストのように考え、キリストのように感じ、キリストのように行動する人になっていくということです。聖書にははっきりと成長の目標がキリストであると書かれています(エフェソ4:13)。
私たちがこのように成長していけば、私たちは聖書が告げる霊の実を結んで生きる者となります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。これらが私たちの人格として身につくのです。クリスチャンは聖書の教えを知っていてもその通りに生きない偽善者ではなく、キリストの弟子となっていくのです。これが人格的な成長です。
福音の証しをどれほど行うことができるのか、という伝道の面での成長もありますし、聖書の言葉にどれほど従って生活しているのか、という従順の面での成長もあるでしょう。教会は、「成長」ということを真剣に考えるべき時が来ていると考えます。命は、成長するものです。成長しなければ、命は死にます。
(三)
子供の成長を見るのは親の喜びです。神の家族の中で、お互いに成長していくのを見るのは、天の父の大きな喜びです。そして私たちは互いの成長を喜び合うことができます。成長のあるところ、命が息づいているからです。福音が受けとめられ、実っているからです。
私は今、学びをしています。弟子コース、五つの目的の学びです。学びなくして成長は難しいと考えるからです。学びといってもそれは知識を吸収するだけの学びではありません。学んだ知識をいかに生活に生かすのか、実践的な練習が伴うのです。ですから宿題を出します。人を愛する練習、神に信頼する練習、神と会話をする練習、聖書から教えをくみ取り、その教えを実践する練習などなど。これが今教会で行っている学びです。大変なことはありません。「神を信じて生きる」練習です。神の前に罪を犯す弱い人間であることを認めつつ、神の恵みによって生かされる人間となるための学びであり、練習です。
子育てで教えられることですが、人を自分の思ったようには成長させることはできません。学ぶ人が育ちたいと思い、努力しなければ育ちません。学びは、人が育つのをそばで助け見守ることです。こういう風になって欲しいと思っても、そうなるとは限らず、成長には時間がかかります。成長を見守るには忍耐も必要です。学びをする時、焦らないで、暖かく成長を見守ることの大切さを最近はっきりと認識しました。それまでは、自分の中に焦る気持ちがあり、この焦りに悩まされました。今、その焦りからも解放され、ゆっくりと学んでいる人の成長を見守ることができるようになりました。わたし自身も成長しているのです。
学んで成長することの素晴らしさは経験しないとわかりません。学びをする時、私もまた一人の学ぶ者として、同じ課題、宿題をして、学んでいます。信仰に生きるとはどういう事なのか、信仰者にはどんな希望があるのか、神の力はどのようなものなのか、学びます。学ぶことがうれしくて喜びです。信仰を持って生きることの幸いを思います。学んでいる人に、学んでよかったという話しを是非聞いてみて下さい。そして共に成長し、神の家族を築いていきましょう。
(四)
ある宣教師がインドに行きました。その時彼に忠告するインド人がいました。どんなに素晴らしい教えを説いても、インド人は改宗しません。あなたがあなたの教える通りに生きていなければ、宣教は成功しません、と。
今求められているのは、私たちがどれほどクリスチャンとして生きているか、ということだと思います。それは立派な人間になるということではありません。クリスチャンというのはこういう人のことをいうのか、と見せることです。同じ悩むにしてもクリスチャンとして悩み、病気をするにしてもクリスチャンとして病気の生活を送り、クリスチャンとして希望を抱き、クリスチャンとして働くのです。この世の人とは違う歩みがそこにはあるのです。他者との違いを明らかにできる、それが成長です。それは自ずとキリストに似る歩みになります。神の家族には幼い人も、成熟した人もいます。幼い人の成長を励まし、暖かく見守り、成長を喜びたいです。成熟した人は、信仰者として、この世にあってよい働きをして欲しいし、伝道や、育てる働きにも参加して欲しいです。また教会に来て学びをすることが困難な方もおられると思います。是非、教会が神の家族として成長するように、また教会員の成長を祈りに覚えて下さい。これも大切な働きです。
「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください」(詩編4:8)。