クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.1.24)
聖書 ヨハネ 21:15〜19 自分の限界に気づく(1)


今日と来週考えるテーマは、こうです。

自分の無力さ、限界に気づいた。すべてを自分でしなければならない、わたしが頑張れば何とかなるという考えが、自分を行き詰まらせていたことを知った。

 自分の無力さ、限界を認めない生き方、それから逃げる生き方、それを隠す生き方から、イエスによって私たちは解放されました。それを受け入れて開ける新しい世界に生きていきましょう。

     

 金沢元町教会では、AAの集会のために会場を提供しています。AAというのはアルコホ−ル・アノニマスという言葉を省略したものです。アルコホールというのはアルコール、お酒のことです。アノニマスとは匿名の意味です。AAの集会では、集った人たちは本名を名乗りません。AAの集会には、お酒をやめたばかりの人もいますし、何年も飲まない人もいます。集会では、ただ自分の体験とか気持ちを分かち合うだけで、話したくない人は話しません。この体験の分かち合いを通して、依存症から回復ができるという希望が与えられ、互いに励まされるのです。


 アルコール依存症の恐ろしさは、何年も飲まない状態が続いても、いったんお酒を飲んだら元に戻ってしまうことです。依存症が復活するわけです。ですから一生飲まない努力が必要になります。飲み続けない努力は一人ではむずかしいので、共に集まり、自分の気持ち、体験を分かち合って、それを支えとすることがどうしても必要になります。依存症の人は、お酒はやめようと思えば、いつでもやめられると思っています。だからAAのような集会に出ようとは思わないのです。しかし現実には、飲み出したらとまらないし、実はやめられないのです。これは意志の弱さではなく、病気なのです。


 依存症の人は「底つき体験」と呼ばれる体験をします。あるいは「アルコールに対する自分の無力さを徹底的に思い知らされるのです。このままでは自分はどうしようもない、生きていけない、という体験です。医師から飲み続けたら死ぬと警告されたり、妻から離婚を突きつけられたり、生活がどうにもならないことを身をもって知らされ、自分の無力さを知らされるわけです。この「底つき体験」をする時、本当に何とかしなければいけないという思いから、依存症からの回復の道が始まります。

     

 AAには、12ステップというものがあり、回復の道を12段階に分けています。集会では、この12ステップを朗読します。ステップ1は、

「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」とあります。

 金沢元町教会に赴任してしばらくした頃、AAの集会が金沢元町教会で再開しました。出席を求められたので参加しました。12ステップをAAの人たちと一緒に朗読しているうちに、クリスチャンも12ステップの道を辿る必要があるのではないか、そう思うようになりました。なぜなら、私たちにも、自分で努力すれば何とかなると思いながら、どうにもできない現実があるからです。それは罪です。同じ罪を繰り返します。やめたいと思ってもできない、つまりはどうにもならないのです。
罪を繰り返すと言っても、積極的に悪を行うということではありません。むしろ、したくないと思っていることをしてしまうのです。あるいは、したいと思うことができないのです。自分の意志が強ければ、と思うのですが、思い通りになりません。ローマの信徒への手紙第7章にある言葉を紹介します。

「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。

 自分が望むよいことをしたいと思ってもできない、そしてしたくないと思っていることをしてしまう、そういう現実に苦しむ信仰者の言葉です。「そんな自分はなんと惨めな人間だろう」と言葉が続きます。AAの人たちがアルコールに対して無力で悩んでいることは、人ごとではない、私はそう考えています。クリスチャンも心の中のどこかで、ちゃんとやろうと思えばできる、そう思っているのです。でも現実にはできないのです。「底つき体験」がないので、罪を繰り返しているのです。


 罪に限らず、私たちは、生活の中で、どうしようもない行き詰まりを経験することがあります。夫婦関係、親子関係、仕事のことなど。頑張れば何とかなると思いたいのですが、どうにもならないのです。どうにもならないので、自分の意志の弱さを責めたり、時には人を責めます。責めても解決はありません。


 そこで今日のテーマはこうです。<自分の無力さ、限界に気づいた。すべてを自分でしなければならない、わたしが頑張れば何とかなるという考えが、自分を行き詰まらせていたことを知った>。この気づきは、あらたな出発点です。

     

 今日読んだ聖書にペトロが登場します。彼は自分の無力さに打ちのめされる経験をした人です。イエスには12人の弟子がいました。ペトロは筆頭格の弟子、一番弟子と見られていました。たぶん自分でもそう思っていたと思います。ある時イエスが言います。

「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついて来ることになる」(ヨハネ13:36)。

 イエスは十字架で自分が死ぬことを述べているのです。それを聞いたペトロは、

「主よ、なぜついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」

と断言します。するとイエス

「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」

と言います。


 そして実際にイエスが逮捕された後、「あなたもあの人の弟子の一人ではありませんか」と話しかけられると「違います」と返事をしてしまうのです。しかも三度、イエスとの関わりを否定します。ペトロにすれば、口が裂けても「違います」とは言うつもりはなかったのです。ところが、口から出たのです。しかも三度も。ここにペトロの無力さ、ペトロの弱さがありました。


 彼は自分の無力さに対して無知であったために、「あなたのためなら命を捨てます」と大きなことを言ってしまいました。やがて鶏が鳴くのを聞いて、激しく後悔することになります。ペトロは激しい自己嫌悪に陥り、自分を限りなく責めたことでしょう。


 普通私たちは、自分の無力さ、弱さを認めようとしません。私たちは努力が大事だ、努力して困難を乗り越えれば成功できる、努力は尊い、と教えられてきました。無力さを認める、それでは人生の落伍者になってしまう、そう思ってきました。自分の限界を認める、それは自尊心を傷つけることでした。ですから、私たちは無力さ、限界をなかなか認めようとしないのです。


 そのために、逃げようとします。自分の無力さ、限界がばれてしまいそうな事柄にかかわることは避けるのです。そこで何か求められたら「できません、無理です」と断るのです。あるいは、何かにチャレンジすることもしません。失敗を恐れるのです。失敗ほど自分の無力さ、限界を思い知らされることはありません。


 あるいは、自分の無力さ、限界を隠そうとします。自分を飾ります。自分を装い、自分を偽るのです。見栄を張ったり、自分をよく見せようとしたりします。仮面をかぶるのです。すると正直でなくなります。そうしているうちに、本当の自分を見失ってしまいます。別の人間を演じているうちに、自分がわからなくなったりします。


 そんな自分が幸せであるはずがありません。自分の無力さ限界から逃げようとしたり、それを隠そうとしたり、あるいは気づこうとしない、認めようとしない、そういう態度は、結局、私たちの歩むべき道をゆがめてしまうのです。

     

 今日の聖書で、イエスの方からペトロに近づきます。そしてイエスはペトロに声をかけます。ペトロにすれば、イエスを裏切った自分のことをイエスがどう思っているのかわかりません。声をかけられドキッとしたと思います。イエスは言います。

ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」。

 「この人たち以上に」というのは、ここにいるイエスの他の弟子たち以上にとの意味です。マタイ福音書では、ペトロは、「たとえ他の弟子が躓いても私は躓きません」と言ったのです。他の弟子たちが命を惜しんでイエスを見捨てたとしても、私はあなたのために命を捨てますと言ったのです。他の弟子たちには弱さ、限界があるとしても、私は違います、と言ったわけです。そこで今度はイエスが逆に、「この人たち以上に」わたしを愛しているか」と質問したわけです。


 ペトロが答えると「私の小羊を飼いなさい」と命じます。イエスはペトロに使命を与えているのです。イエスを裏切ったからもうペトロは用いるつもりはないと拒むのではなく、ペトロを用いようとされます。このやりとりが三度繰り返されます。


 三度目の時、ペトロは悲しくなったとあります。自分が三度もイエスを裏切ったことが思い出されて悲しいのか、それともイエスを愛している自分の思いを信じてもらえなくて、悲しく思ったのか、それは読む人の想像に任されています。確かなことは、イエスは、三度、ペトロに、「私の羊を飼いなさい」と重ねて使命を与えたことです。大言壮語し、イエスを裏切ったペトロをイエスは受け入れて、今一度使命を与えようとしているのです。いざという時に思わぬ無力さを出してしまうペトロをイエスは用いようとされます。


 自分の無力、限界を知っている人間のほうがふさわしいかのようにイエスはペトロに使命を与えています。無力な者、限界のある者に対するイエスの愛を見ることができます。ペトロはイエスに愛され、今一度使命を与えられるのです。「この大祭司(=イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく」(ヘブル4:15)。イエスの十字架の死、それは罪に対して無力な者への愛に他なりません。


 ペトロにとって、自分の弱さを受け入れてくださったイエスに対する結びつきは、以前よりも強くなったに違いありません。自分の無力さをイエスは知っていてなお使命を与えてくださるのです。無力さに打ちのめされそうな時は、祈り、助けと導きを求めて良いのです。行き詰まりの中で、落胆するのでもなく、助けをもとめることができるのです。


 信仰者には、自分を助け、導き、力を与えてくださる神がおられます。自分の無力さ、限界を知る時、私たちは真に神に信頼することができます。無力さ、限界に気づく時、神に信頼して生きる世界が開かれていくのです。


 パウロという伝道者が聖書に登場します。彼は、祈りの中で、神から答えを受け取ります。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント二12:9)。

 人間は弱い、しかしその弱さの中で、神の力が発揮される、という神の答えです。だから私は自分の弱さを喜んで誇ろう、とパウロは述べます。それで私も

「私は力のない者ですから、神様、あなたが生きて働いてください」と祈ったことが何度もあります。

で、どうなったのかというと何も起きません。底つき体験がなかったのです。自分の無力さを口には出しますが、心の底では、自分の力で何とかなるのではないか、という思いが潜んでいたのです。そして本当に自分の限界、無力さに気づかされた時、神に信頼して生きる世界が開かれてきて、うれしく思っています。無力な自分を用いてくださる神への信頼、そして安心感が与えられます。自分の限界、無力さに気づく、それは幸いなことであり、霊的成長の第一歩です。自分の無力さ、限界を受け入れる、それは常識に反することかもしれませんが、神に信頼する信仰の世界への入り口なのです。ここから道が開けるのです。祈ります。


祈り

 天の父、私たちは無力さ、限界を持つ者です。私たちは、己の無力さや限界を認めず、それを隠したり、直面することから逃げたりします。しかし、それは自分の歩むべき道をゆがめるものであることを教えられます。自分を誇りたいという思いを捨てて、私たちの弱さを受け入れ、なお私たちを生かしてくださる神様の愛に気づき、神様に生かされることを求めることができるように助けてください。
 私たちの弱さの中に神の力が現れるので、自分の弱さを誇るというパウロの発言は、人間の常識に反しますが、真理であると信じます。
 自分が頑張れば何とかなるという考えが自分を行き詰まらせたことを認めることができますように。あなたによって頑張っても行き詰まる行き詰まりから解放が与えられますように。イエス・キリストの御名により祈ります。