クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

宗教改革者ルターは、『キリスト者の自由について』の出だして、キリスト者とは何かを、二つの命題で言い表している。

  • キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
  • キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。

 とても印象的な文である。キリスト者は自由でありながら、僕であるとその本質をずばりと語っている。自由を考える時、「〜からの自由」と「〜への自由」と自由を二つの面から述べることがある。「〜からの自由」とは、信仰者は、何ものにも縛られない自由な人間であることを意味するし、「〜への自由」とは、自らを仕える僕に向かう自由を指すと考えることができる。自由とは、束縛されない自由であると同時に束縛される自由でもある。
 今、礼拝説教で、霊的成長をテーマに説教をしている。霊的成長とは、神を愛し、人を愛する上での成長と考えている。より神を愛し、より人を愛することができるようになる、これが成長である。また別な角度から言うと、様々な束縛から自由になって「自由な主人」になれるとき、「すべてのものに仕える僕」になれる。まず自由な主人になり、次に僕になるのである。この順序が大切な気がする。真に自由になれなければ、真に仕えることはできない。