クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.2.14)
聖書 ヘブル 11:6 神に心を向ける(2)

 私たちイエス・キリストを信じ、クリスチャンになったらどのように生きたらよいのでしょうか。イエスは、神の教えは要約すれば、神を愛すること、人を愛すること、この二つになると教えられました。ですから、信仰者として生きるとは、神を愛し、人を愛して生きることです。


 ところが私たち人間は、聖書によると、自己中心的な人間であり、神よりも自分のこと、人よりも自分のことをいつも考えているのです。そんな人間が、神を愛し、人を愛することは簡単なことではありません。神は、私の生活を幸福にしてくれればいいんだ、そういう思いで神を信じる人もいます。しかし聖書は、神を愛し、人を愛するところに人間の幸福があると教えています。


 宗教改革者のルターが、その著著『キリスト者の自由』の冒頭でこう述べています。

キリスト者とは何であるか、またキリストがキリスト者に与えてくださった自由とは何か。私は次の二つの命題を掲げてみたい。

  1. キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、だれにも服従しない。
  2. キリスト者はすべてのものに仕えることのできる僕であって、だれにでも服する」。

キリスト者は本当に自由な人間であるが、同時にすべての人に仕える僕であると述べています。


 人間は、自由になってこそ、僕になることができる、つまり、神を愛し、人を愛することができるというのです。そして実際に、自由にされた人が、神を愛し、神に仕え、人を愛し、人に仕えることができます。


ところが私たちは、様々な行き詰まりの中で、自分のことさえ思い通りにならず、まして、神のこと、他の人のことまで思う余裕がないのです。だからこそ、私たちは、信仰に立つことによって、自由を与えられ、その上で、神を愛し、人を愛していきたいと思うのです。

 今日読んだ聖書の言葉はこうです。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」。

 信仰に生きる人は、神が求める者に報いてくださる方であることを信じることが必要だと書かれています。信仰に生きるとは、神に求める者になることです。そして、神が求めに答えてくださることを信じるのです。それが信仰だ、とヘブライ人の手紙は述べています。では私たちは何を求めたらよいのでしょうか。今私たちが考えているのは、行き詰まりからの解放、自由です。神がこれを与えてくださると信じて生きていきたいのです。

 今、私たちは信仰の成長と題して、10のポイントを考えようとしています。第一のポイントはこうでした。

「自分の無力さ、限界に気づいた。すべてを自分でしなければならない、わたしが頑張れば何とかなるという考えが、自分を行き詰まらせていたことを知った」。

 まず、信仰者は、自分の無力さ、自分の限界に気づいた時に、どうするのか、そこにクリスチャンらしさが現れてくるのです。私たちは努力することの大切さを教えられてきましたし、自分の力で生きていくことが自立した人間になることだと教えられてきました。しかし、人はしばしば行き詰まりを経験するのです。行き詰まりには2種類あって、今すぐ、何とかしなければいけないという切羽詰まった行き詰まりです。もう一つは、道が閉ざされ、ふさがれた感じが漠然とする行き詰まりです。切羽詰まってはいないけど、このままではいけないような気がするし、だからといってどうしていいかわからないといった感じです。


 そして先週から考えている第二のポイントはこうでした。

「自分を超えた者、神に心を向けた。神、永遠、目に見えないものとのつながりを感じた。それでも(無力さ限界があっても)なお自分を生かしてくれているものについて気づくことができた。神の愛を体験的に知ることができた」。

 私自身は、死ぬことの恐れ、そして生きることの空しさに人生の行き詰まりを感じました。

  • 行き詰まりを感じながらも、会社員として働き、毎日を過ごしていました。
  • 恐れや空しさをごまかすために遊んだり、楽しみを求めたりして、生きていました。

 この行き詰まりから解放されたくて、神様を求めました。いや、神様の方から手を伸べてくださり、私は信仰に導かれ、死の恐れや空しさから自由になりました。このことは先週もお話ししました。

今日は、二つのことをお話ししたいと思います。

  1. まず、行き詰まりは、私たちを神とのつながり、人とのつながりに導くということ、
  2. もう一つはクリスチャン特有の行き詰まりとして罪の奴隷状態がありますが、神は私たちを解放してくださるということをお話ししたいと思います。この二つは私たちにとって喜びの知らせです。それを知っていただきたいと思います。

 FEBCというラジオ放送があります。内容はキリスト教です。この放送の中で、カトリックの司祭の幸田さんという方が、心に残る話をされました。まずそれを紹介します。


 ある知的障害者の施設で働いているAさんという人がいました。その施設では障害者たちは衣食住を保証されてはいますが、人間として生きる喜びや生き甲斐を見いだせないままに、ただ生かされているような状態に、Aさんは疑問を抱いたのです。そして何人かのその施設の障害者を連れて、施設を飛び出して、自活の道を歩み始めました。主に廃品回収をして自分たちの生活を支えていこうとしました。障害者と一緒に働き、生活を共にしたのです。Aさんは理想と情熱に燃えて、障害者の自立ということを考えていて、自分に対しても、そして人に対しても、非常に厳しい人でした。


 幸田司祭は学生の時、Aさんの働きを手伝っていました。怖い印象を与えるAさんに10年前に再会した時、Aさんが本当に穏やかになり、その顔に優しさに満ちていることに驚かされたそうです。そしてAさんの話を聞きます。Aさんは言います。自分は障害者と共に生きて、彼らと共に自活の道を歩もうと思って必死になって働いてきた。でも一生懸命やればやるほど自分は孤立していった。

  • 自分と一緒に働いているスタッフの人たちに対して、なんで自分のようにできないんだ、なんでこんなことができないんだ、というように非難する思いが出てきてしまった
  • そして仲間であるはずの障害を持っていた人たち、ハンディを持っていた人たちを、いつの間にか、仕事がどれほどできるかという目で、見るようになってしまった。

 一緒に働いているスタッフの人たちはやめていくし、仲間であるハンディを負っている人たちとの関係がおかしくなり、行き詰まってしまいます。

 そしてフランスに渡ってジャン・バニエの営むラルシュ共同体に行きます。そこは障害者と共に生きる共同体です。そしてAさんは変えられるのです。そしてAさんは言うのです。

「自分はできる人間だと思っていた。そこに落とし穴があった。自分ができないと本当に思った時に、仲間とのつながりが生まれていった」。

Aさんは、私と幸田司祭に再会した時に、目を輝かせて、

「できないということは本当にいいことなんだよ」

と嬉しそうに話ししたそうです。

 これはとても考えさせられる話です。自分の牧師としての在り方についても考えさせられます。「自分はできる」と考える人は無力な人、限界のある人に見えません。しかし仲間と一緒に働いて物事を成し遂げる能力に乏しいことがわかります。他の人を自分の手足のように考えてしまうのです。しかし、自分の無力、限界に気づいた時、仲間とのつながり、人とのつながりができていくのです。


 私たちは人間関係の中で、しばしば、相手にこうなって欲しいという要求を持ちます。そして何とか相手を変えようとします。しかし思うようにいきません。夫婦関係、親子の関係、職場での人間関係に行き詰まりが生じます。そういう行き詰まりを打破するためには、自分が変わらなければならないのですが、それは謙遜を必要とします。謙遜になることはむずかしいのです。自分にプライドがあるからです。変わるべきは自分ではなく相手だ、という思いが根強くあるからです。


 自分は相手に変わって欲しいと要求できるほど偉い人間ではないし、むしろ自分は無力な者、限界のあるものだと気づく時に、自分を低くできるようになります。そして、あらたな人とのつながりを生み出していくことができます。そして神の前に謙遜とされ、神とのつながりも新しくされます。

 次はクリスチャンが直面する罪の奴隷という行き詰まりです。聖書に私たちは罪の奴隷であると書かれています。人間は罪人だというのが聖書の人間の見方です。多くのクリスチャンは真面目です。聖書を読み、神の教えに従って生きていこうとします。しかし、神のみ心に背いてしまうことを繰り返し、そのことを悔やむのです。聖書の教えを読み、それを行おうと信仰者は考えます。ところがそれを実行したいと思ってもなかなか実行できない、そういうことがよくあるのです。


 私は若い頃、たばこはやめたいと思っていました。なぜなら体に悪いからです。でもやめられないのです。たばこを吸いたいという思いが湧いてきて、抑えることができないのです。

  • ある人は、何かあるとつい嘘をついて自分を守ろうとします。嘘がいけないとわかっていても、気がつくと口から嘘の言葉が出てしまうのです。
  • 人のことを思いやるべきなのに、それができない、つい自分の立場から発言をしてしまう。
  • 子供をほめてあげればよいのに、つい、まだそれでは足りないと文句を言ってしまう。
  • 謝るべきだと思っていながら謝れない。

 このようにすべきだとわかっていることができない、これを罪の奴隷といいます。これも一種の行き詰まりです。私たちは罪に対する無力さを感じます。いつの間にか罪には勝てないと考え、クリスチャンの顔から喜びが消えていくのです。

 新約聖書のローマの信徒への手紙7章15節にこう書かれています。

「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。

 クリスチャンにならなければ惨めさを味わわなくて良かったのです。クリスチャンになったために神様の教えを知りました。その教えを守ろうとすると守れないのです。

  • 悪口を言ってはいけませんと教えられながら、つい人とうわさ話をしていると悪口を言って花が咲いてしまうのです。
  • 妬んではいけませんと教えられながら、自分よりすぐれたものを持っている人を見ると悔しくなってねたんだり、憎しみを抱いたりします。
  • 仲直りすべきだとわかっていても、自分から行動を起こすことができません。

 そして口から出る言葉は「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」です(ローマ7:25)。クリスチャンにならなければ、神の教えを知らなければ、こんな惨めさを味わわなくてすんだのです。この惨めさ、これはクリスチャンの味わう行き詰まりです。罪に対する無力さによって私たちは惨めさを味わうのです。それだけではありません。色々な誘惑があります。そして誘惑に負けてまたもや惨めさを味わうのです。信仰者に希望があるのでしょうか。罪の奴隷からの自由をどう獲得するのか、今日はお話しする時間がありません。

「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(ローマ6:17〜18)。

「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」(6:22)。

 惨めさを味わっている人は、この聖書の箇所をご自分で、何度も何度も、読んでください。聖書が何と言っているか確認してください。そして聖書が神の言葉だと思うなら、これを信じてください。聖書は明確に、私たちは罪から解放されることを告げているのです。罪からの解放を味わう時、突き抜けるような喜びが与えられ、喜んで神を愛し、人を愛するように変えられていくんです。神に求めるなら、罪からの解放を体験することができるのです。神は求める者に必ず報いてくださる方であることを信じる、これが神を信じるということです。私たちは生きて働かれる神を体験し、この神に生かされることがわかります。

「自分を超えた者、神に心を向けた。神、永遠、目に見えないものとのつながりを感じた。それでも(無力さ限界があっても)なお自分を生かしてくれているものについて気づくことができた。神の愛を体験的に知ることができた」。

この成長のための第二のポイントを受けとめたいと思います。

祈り

天の父、私たちは限界を持ち、無力さを持つ人間です。このことを喜んで認め、受け入れることができますように。私たちを生かしてくださるあなたを知ることができるからです。自分の力で生きることに努力するのではなく、あなたに支えられ励まされて生きることに努力できるように導いてください。特に、罪から解放してくださるあなたの救いを求め、罪の奴隷という行き詰まりから私たちを解放してください。解放された自由から、あなたを愛し、家族を愛し、隣人を愛することができるように導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。