クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 明日の説教の準備が終わった。


 今週は教会で葬儀を行った。92歳の教会員が天に召された。朝、起きた時、体調がおかしいと救急車で病院に行き、間もなく亡くなった。突然の死であり、遺族の方も信じられない、と言っておられた。いつもそうだが、葬儀の説教は苦労する。葬儀から帰った夜、牧師室で説教の準備をしている時、何かにおうのである。何のにおいか、と考えたら、ああそうかとわかった。遺体を火葬に付した後、骨を拾う。閉じられた部屋で遺骨を拾う時に、部屋に充満していたにおいが僕の体に付着していたみたいだ。遺骨を見ても何も感じない自分。僕の末っ子は、3歳の時、妻の父の葬儀の時、遺体が骨になったのを見て、激しく泣いたことを思い出す。あの時僕は、息子を抱いて、エゼキエル書の、骨が集まってそこに肉がつき、生きる者となった箇所を話した。それ以来しばらく息子は、早く死んで天国に行きたいと話していた。


 金曜日、火葬場から帰って休んでいると「話を聞いて欲しい、これから教会に行きたい」との電話。また「祈っていいですか」と教会に来られた方がいた。神様は、何をなさろうとしているのか、と思う。神様のみ業が始まることを願う。


 聖書に強い人は弱い人の弱さを担うべきだと書かれている。罪深い我々は、つい人の弱さを裁いたり、その人に教えようとする。自戒しなければならない。こんなことを思わされる最近。


 カーナビの調子が悪いので新しいものを購入した。それで昼食後、買い物を兼ねて1時間ほどドライブ。その間、FEBCで放送された加藤常昭牧師による「老いと死」の話を聞いた。心の深いところから慰められる話だった。加藤牧師は小さい頃病弱で死を深く恐れた、と話された。今回、葬儀で何を伝えるのかを考えた時、死を恐れる思いのある人に、イエス・キリストがその恐れから私たちを解放してくださったことを伝えようと思い、そのように説教した。あらためて、死の恐れからの解放を福音として、語ろうと思った。最近は便利で、ラジオで放送される内容が、インターネットでいつでも聞ける。