クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.2.28)
聖書 ルカ7:36〜50 自分を愛する事を学ぶ(2)

 信仰の成長、霊的な成長を考える中で、自分を愛することを学ぶというテーマの続きです。前回は、ありのままの自分を受け入れ喜ぶこと、それが自分を愛することだ、と話しました。自分には欠点があるし、いやな性格もあるし、さらに罪を犯すし、無力さや限界もある。もう少し、ああなれば、こうなればと思うところのある自分。


 そんな自分をありのままに受け入れ喜ぶ、それが自分を愛することだと学びました。それができるのは、私たちが神に愛され、神が私たちのことを価高く尊い存在と言ってくださるからであると学びました。


 霊的成長の第三のポイントはこうでした。「自分の素晴らしさを知る、自分を愛する事を学ぶ、自分の様々な欠点や限界を知りながら、よいものがすべて失われたわけではないと知る」。そこで今日は、自分の素晴らしさを知ること、自分の様々な欠点や限界を知りながら、よいものがすべて失われたわけではないと知ることを聖書から学びたいと思います。

 36節。ファリサイ派の人物がイエスを食事に招待しました。このファリサイ派の人物の名はシモンといいました。彼がなぜイエスを招いたのか、具体的なことは書いてありません。おそらく彼はイエスに関心を示し、直接話を聞いてみたいと思ったのだと思います。


 37節。このシモンが住む町に、ひとりの罪深い女がいたとあります。おそらく娼婦であり、売春をして生計を立てていたのでしょう。彼女のことは町中の人が知っていました。彼女はイエスがシモンの家に入り、食事の席についておられるのを知ったとあります。彼女はどのようにして知ったのかという疑問が生じます。詳細はわかりません。


 38節。彼女は、香油の入った石膏の壺をもって、シモンの家に入ります。罪深い女とされていた彼女が家の中に入るのを咎める人はいなかったようです。また彼女が、イエスに近づき、イエスに対して、香油を塗るという行為を咎める人もいませんでした。シモンが彼女に気づいたとき、咎めるにはもう時機を逸したのかもしれなません。そこで彼は、イエスが彼女に対してどういう態度を取るのかに注目しました。それはイエスを知るよいチャンスでもありました。彼女は積極的な行動を取ります。あたかも自分の家に客を招いたかのようにイエスを迎えます。自分の家であれば、桶に水を入れてイエスに差し出すこともできたでしょうが、他人の家です。彼女は、泣いて涙をもってイエスの足をぬらし、香油を塗ります。彼女は泣いていたのです!

 彼女は、町の人たちから罪深い女と見られていました。軽蔑するまなざしで見られる辛さ、かなしさが彼女にはありました。自分を責め、軽蔑する人の目の前では、どんなに辛くても、泣くことはできません。


 彼女には一つの確信がありました。その確信が彼女を変え、彼女を駆り立てました。イエスは、自分を軽蔑し非難するような人ではない、自分を受け入れてくれる、それが彼女の確信です。そう信じて彼女はイエスのもとに行ったのです。そしてイエスに近づいた時、胸に秘めている悲しさ、辛さが一挙に吹き出て、彼女は泣いてしまいました。


 イエスは彼女が涙で足をぬぐい、香油を塗るのをじっと見ていました。ファリサイ派のシモンだったら、やめろ、汚らわしい、と言って、この女性を突き放したことでしょう。しかしイエスはそんなことをせず、彼女を受け入れました。この女性にしたいようにさせました。彼女は、イエスに対して、何か願うことがあったわけではありません。逆に、イエスに対して何か「してあげたい」という思いでイエスに近づいたのです。


 人々からは、罪深い女と軽蔑され、非難の目で見られ、自分でも、自分は価値のない、駄目な人間だと思っていたでしょう。しかし、イエスという方は他の人たちとは違う、自分を受け入れてくれる、自分を人として重んじてくれる、そう思った時、彼女は、自分にもできることがある、いやしてあげたい、そう思って、イエスに近づき、香油を塗り、イエスをもてなしました。彼女はイエスに最善のことをしたのです。

 確かに私たちには、欠点があり、いやな性格があり、無力さ、限界があります。だからといって、私たちから、よいものがすべて失われたわけではありません。私たちは駄目な人間というわけではありません。そこは注意したいと思います。自分の目には、欠点や無力さが大きく見えて、自分のうちにあるよさが見えなくなってしまいがちです。劣等感にとらわれると、自分の中によい面があっても、それがなんなのさという気持ちになってしまいます。


 しかし、私たちが自分を愛することを始めるなら、自分の中にある良い面に目を向けることが大切です。私たちには、誰もが、神様から賜物を与えられています。能力、才能、得意なこと、喜んでできること、が与えられています。

「私たち一人びとりに、キリストの賜物のはかりに従って恵みが与えられています」(エフェソ4:7)。

「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」(ローマ12:6)。

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(1Pt4:10)。

 神からの賜物が与えられているとあります。生まれつきの賜物もあるし、後から身につける賜物もあります。よいものが私たちの中にあるのです。神の言葉である聖書はそのように教えています。ですから、このことをまず信じたいのです。そしてこのことを喜びたいのです。自分には特別に秀でた能力なんかない、と思えるかもしれません。秀でていなくてもいいのです。自分に与えられている力、何か得意なこと、喜んですることができること、些細なものであれ、それらは賜物として与えられているよきものなのです。


 そして自分の素晴らしさを知りたいのです。なぜ自分が素晴らしいのか、神が「あなたは価高く尊い」と言ってくださるからです。神から賜物を与えられ、それを生かすことができるからです。自分の素晴らしさ、それは神から来る素晴らしさなのです。


  • 自分が神から賜物を与えられていることを知り、その賜物を生かして生きることができる。それが自分の素晴らしさです。
  • 自分の素晴らしさを知るとは、自分に他の人よりも特別に秀でたものがある素晴らしさではありません。秀でたものがなくてもよいのです。神から賜物を与えられていることを喜べる、それを用いることができる、それが自分の素晴らしさです。


 人々から罪深い女と軽蔑され、誰からも非難されたあの女性にも、イエスをもてなす心がありました。イエスは彼女の行為を自分に対する愛のわざと認めました。ファリサイ派のシモンよりもはるかに愛に満ちているとイエスは見なしたのです。自分を受け入れてくれるイエスに対して、感謝を示す真心を彼女は持っていたのです。そして真心を表したのです。そこに彼女の素晴らしさがあります。

聖書は私たちに教えます。

「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」(フィリピ2:3)。

 他者の素晴らしさを認めるようにと教えているのです。私たちは、うっかりすると自分と人を比較し、他者の素晴らしさを認めるよりも、劣等感を感じたり、他者に対しては欠点を見つけて自分に安心したりします。


 違うんです。人を愛するとは、相手に自分の美しさに気づかせることなんです。誰かを愛するなら、その人の良い所を見つけ、その人が自分の良い所に気づくようにするのです。そして人が自分の素晴らしさに気づいていくようにする、それが人を愛するということです。


 それは子どもを育てる場面を考えればよくわかります。子どもを育てる時に大切なことは、子どもに自分の素晴らしさに気づかせることです。しかもそれを神の賜物として気づかせていくことです。

・そのために子どもの良い面を見た時には、それを認めてほめるのです。
・逆に、いつでもまだ足りない、まだ足りないと要求すれば、子どもは自分の力の足りなさをいつも感じ続けることになります。

 子どもをほめ、自信を持たせ、自分の素晴らしさに気づかせる、それが子どもを愛するということです。夫婦でも同じです。

・「尊敬の念をもって妻と生活しなさい」(テサロニケ4:4)。
・「妻は夫を敬いなさい」(エフェソ5:33)。

 夫婦が互いに相手に要求ばかりしていては、不満が生じます。実際、私たちは身近な人に対して要求しがちです。相手の良い面を見いだし、感謝しほめることが少ないのです。しかし互いに相手の良い面を認め合うなら、夫婦は本当によい関係になっていくでしょう。

・牧師が教会員に対して、良い面を見いだした時には、「すばらしいですね」と認めることも大切です。
・さらには教会員同士もお互いのよさを認め合い、伝え合うことも大切です。

 互いのよさを認め合うことによって、私たちは自分の素晴らしさに気づいていくのです。その時、注意が必要です。互いにほめ合えばよいということではありません。互いにお世辞を言うことでもありません。それは、真実な言葉でなければなりません。イエスファリサイ派の人々を批判して言いました。「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしない」(ヨハネ5:44)。私たちが互いの良い点を認め合う時、それは賜物を与えてくださった神様に感謝し、神様をほめたたえることにつながります。


・私はあなたの賜物を敬い、あなたは私の賜物を敬う。そのようにして私たちが神からの賜物を感謝し、その賜物を用いる自分を喜んでいくのです。
・そして自分には、素晴らしさがあることを、その素晴らしさを神が与えてくださったことを認め、神をたたえていくのです。
・その時、神様は私たちのことを喜び、ほほえんでくださるでしょう。

 互いに愛し合い、互いに認め合い、互いに自分の素晴らしさに気づかせていく、それは、私たちにとってチャレンジです。これまであまりしてこなかったからです。ファリサイ派のように裁きの目で人を見るのではなく、欠点、無力さ、限界を持つ自分を愛するように、相手を愛していくのです。人を認め、人の素晴らしさを認めることのできる人が、自分の素晴らしさに気づくことができるのです。


 裁きの目で他者を見る人は、他者も自分を裁きの目で見ると考えます。そして自分の素晴らしさに気づくことができません。うぬぼれではなく、謙遜に神様に生かされている自分の素晴らしさを認める、それが自分を愛することであり、自分を大切にすることです。祈ります。


祈り
イエス・キリストの父なる神様、私たちはあなたの願いによって命を与えられ、この世に生まれ、生かされています。私たちは自分の欠点や気に入らない性格、無力さなどにより、自分の善さ、自分の素晴らしさに気づかなくなりました。あなたから賜物を与えられており、あなたによって造られた素晴らしい人間であることを謙虚に認める者とならせてください。そして自分自身を喜び、愛することができますように。
自分のように隣人を愛しなさいと教えられているように、人を裁きの目で見るのではなく、他の人たちも、神様によって生かされ、賜物を与えられていることを認め、互いの良い面を発見し合い、そのように私たちを作ってくださった神様をたたえることができますように。
自分の様々な欠点や限界を知りながら、よいものがすべて失われたわけではないと知ることができて感謝します。今から後は、喜びをもって、神様を愛し、隣人を、特に身近な家族、信仰の兄弟姉妹を愛することができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。