クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.4.4)
聖書 マタイ 28:1〜10 驚きの復活

今日は、イエス・キリストの復活を祝うイースタの礼拝です。聖書は、イエス・キリストが十字架で死んだ後に復活したと告げます。


 復活は、死んだ人が生き返ることとは違います。イエス神の国の福音を宣べ伝える働きの中で死んだ人を生き返らせることをしています。生き返った人は、また死にます。イエスは生き返ったように見えますが。もはや死ぬことはない者として生き返りました。これを復活と呼びます。そして聖書は、私たちの復活を約束しています。


 復活は驚くべきことです。長く教会に来ている信仰者が、年ごとにキリストの復活に対する感動が増し加わるといいなと思います。私たちもイエス・キリストの復活に驚き、キリストの復活を喜びましょう。

エスは十字架刑に処せられ、死にました。そして墓に葬られます。アリマタヤ出身のヨセフという金持ちがイエスの遺体を引き取り、自分の新しい墓にイエスを葬ります。マグダラのマリア、もうひとりのマリアが、イエスが墓に葬られるのを見ておりました。それは金曜日の夕方のことでした。

日曜日の朝早く、この二人の女性が墓を見に行ったとあります。単に墓を見に行ったとは思えませんが、何のために言ったのか、書かれていません。大きな地震が起こります。それは天使が天から降ってきたことに伴う地震でした。そして天使は、石をわきへ転がします。これはどういう意味かというと、当時の墓は、横穴を掘って造られていました。墓の入り口は、大きな石でふさいだのです。


 地震と共に現れた人は、この世の人とは思えませんでした。

「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」(3節)。

この墓には番兵がいました。祭司長やファリサイ派の人々、つまりイエスを十字架につけた人々が番兵をおいたのです。イエスの弟子たちが、イエスの遺体を盗み出し、イエスは死者の中から復活したと言いふらさないように、イエスの弟子たちの行動を警戒してのことです。


 地震が起こり、突然一人の人が現れ、その体は稲妻のように輝き、身につけている衣は真っ白です。番兵たちは震え上がり、腰を抜かし、死人のように動けなくなりました。墓の入り口は開いており、復活したイエスが墓から出て、墓から立ち去りました。
そこに二人の女性がやってきたと思われます。墓の入り口が開いており、不思議に思い、墓の中をのぞいたかもしれません。彼女たちは、番兵ほどではないにしても墓石に座っている人を見て驚いたことでしょう。天使のような格好をしているのですから。


 その天使は言います。

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。

エスが復活したと天使は女性たちに告げました。さらに天使は、

「弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」。

そこで女性たちは、弟子たちの所へ行くために墓を立ち去ります。

天使は

「あの方は復活なさったのだ」

と二度言います。これはまさに喜ばしい知らせ、福音です。天使は福音を宣言したのです。

「あの方は死者の中から復活なさった」

と。


 イエスは弟子たちと一緒に神のことを多くの人に広める働きをした。そして何人かの女性たちが、食事の世話をするためにイエスと行動を共にしていました。そのイエスが十字架で処刑されたのです。イエスは大きな働きをすると期待していましたから、その働きが頓挫したことになります。弟子たちや女性たちの悲しみは非常に大きなものだったと思います。弟子たちはイエスを見捨てて逃げましたから、自分を責める思い、罪責感も強かったと思います。


 そのイエスが復活したというのです。イエスが生きているというのです。まことに喜ばしい知らせを、女たちは聞いたのです。

「イエスが死者の中から復活した」

という喜ばしい知らせを天使は語ったのです。

天使は言いました。

「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(10節)。

天使が告げたこと、それは初めて聞く言葉ではなかったのです。

「かねて言われていた通り」。

すでにイエス自身が弟子たちに語っていたことなのです。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ16:21)。


 
エスは3回、このことを語っていました。弟子たちはこの言葉の意味がわからず、また怖くてイエスに尋ねることができなかったと聖書にあります。

「復活」

ということがどういうことかわからなかったのです。でも今、それが現実になったのだと天使は告げました。イエスは自分は殺されるが復活すると弟子たちに語り、女性たちも知っていました。彼らはイエスの言葉を本気で受けとめていませんでした。理解できないから、仕方ないのかもしれません。しかし本気で受けとめなかったのです。


 受けとめていませんでしたが、イエスの復活という知らせは、すでに聞いていたのです。イエスの弟子たちは、イエスが殺されるけれど三日目に復活することになっていると聞かされましたが、これはイエスの約束です。喜ばしい約束、メッセージでありました。でも弟子たちはそれを受けとめきれないでいました。

  • 福音とは、イエス・キリストに関わる喜ばしい知らせの意味です。
  • イエス・キリストが救い主で私たちを救ってくださる方である、これが福音です。
  • 罪赦され、永遠の命を与えられる、これが福音です。


 福音とは、広い意味で神の約束であるということもできます。神の約束を聞くことは喜ばしいことです。イエスの母マリアは、天使ガブリエルから、

「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり・・・」

と神の約束を受け取りました。これも喜ばしい知らせです。マリアは、

「お言葉通りこの身になりますように」

と応じています。

二人のマリアは、天使から、イエスは復活したという喜ばしいメッセージを聞きました。さらにイエスガリラヤで弟子たちに会うであろうという伝言を受けて墓を去ります。喜び、走って弟子たちのもとに行きます。彼女たちは、喜ばしい知らせ、福音を聞いて、すぐに行動に移ったのです。弟子たちに知らせるために、走り出します。福音を聞くことは喜ばしいことです。その喜びから、女たちは行動したのです。すると行く手にイエスが立っていて

「おはよう」

と言われました。何と復活したイエスとお会いしたのです。イエスは復活したという喜ばしい知らせを聞いたばかりですが、イエスご自身に出会ったのです。あの知らせは本当だったのです。


 喜びの知らせ、福音を聞くことは喜びです。そして、その知らせが本当であると知る時、さらに大きな喜びが訪れます。イエスは本当に復活した、それだけではない。目の前にいるのです。女性たちは大きな、大きな喜びに包まれたことでしょう。福音として天使から聞いた喜ばしい知らせが現実だとわかったのです。

私たちはいつ福音を聞いたのでしょうか。いつ福音を喜び、その福音が本当だったとわかってさらに喜んだのでしょうか。イエスは復活した、とマリアたちは福音を聞きました。イエスは復活した、それは私たちに対しても福音です。しかし、いつ福音として聞いたのでしょうか。

  • 信仰を持つ前、イエスが復活したと聞いても、うれしくもなかった。信じられなかったから。
  • しかし、神の導きにより信仰を得た時、イエスの復活を信じることができるようになった。信じることができた時、それは嬉しかった。
  • さらにもっと嬉しかったのは、イエスが今も生きており、私たちと共にいてくださることがわかった時だった。
  • それだけではない、イエスが私の内にあって生きておられることを知った時は、もっとうれしかった。イエスが復活したということ、それは、私の身において本当であるとわかった時、喜びで満たされた。

(これが信仰者の経験です)


 私たちは聖書から福音を聞きます。私たちは聖書から神の約束を福音として聞くことができます。女たちが天使から福音を聞いて、走り出した時、イエスが目の前に現れ、福音が本当であることがわかりました。私たちも、神の約束を信じ、それに期待して歩み出す時、その約束が現実となる喜びを味わうことができるのです。

神の約束を聞く喜びがあり、神の約束が実現する喜びがあるのです。


私たちは聖餐を祝います。初代教会の信者たちは、家ごとに集まり、パン割きをしていました。彼らは集まり、み言葉を学び、祈る時、パン割き、つまり聖餐を行っていました。それはイエス・キリストが共にいることを喜ぶ時でした。私たちも聖餐を祝う時、イエスがここに共におられることを信じ喜びます。パンと葡萄酒が私の体内に入り、私と一つとなるように、私とイエスが一つであることを味わうのも聖餐の喜びです。


 聖書を読む時も、説教を聞く時も、私たちはただ文字を読み、話を聞くのではなく、共にいてくださるイエスの語りかけとして聖書を読み、説教を聞くことができます。御言葉を行おうとする時、イエスが力を与え、励まし、御言葉を実践することができます。イエスは今も生きておられる、これが復活の喜びです。


 信仰者が心を一つにして愛し合う、それは教会がイエス・キリストの体であることを示すものです。私たちがイエス・キリストにつながって生きていること、それを世の人々が見る時、イエスは生きておられることが伝わっていきます。


 あの女性たちの前にイエスが現れた時、彼女たちは、驚きと同時に深い喜びに満たされました。私たちもまた、イエス・キリストが生きておられると知る時、驚きと喜びに満たされます。この驚きと喜びをもってイースターをお祝いいたしましょう。


祈り

天の父なる神、主イエスを死者の中から引き上げられたあなたを賛美します。主イエスが今も生きておられ、私たちと共におられ、私たちのうちに住んでくださいます。そのように聖書は福音を宣言します。
この福音が私たちの身において実現しますように。その実現を喜び、祝うことができますように。復活されたイエスと共に歩む信仰の日々が、いよいよ祝福されたものとなりますように。
よみがえられた主イエスと日々共に歩むことができますように、主イエスが私の内にあって生きておられますと告白できますように。イエス・キリストの御名により祈ります。