クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 少し疲れがたまったみたい。『五つの目的』の学びが今日は中止になったので、夜はゆっくりすることにした。で、録画しておいた映画を見た。『奈緒子』。幼い時、自分のせいで人が死んだ。高校生の時に、その人の息子に出会った。彼も高校生。そこから物語が始まる。自分のせいで人が死んだ。これは心の重荷となる。息子は、自分の父の死の原因となった娘と会う。最後は感動的な場面でウルウルとなる。


 人と人の心が通じ合う、こういう場面で妻は泣く。僕も泣く。今回は改めて思った。神の心と人の心が通じるとはどういうことか。それは僕が神の心を受けとめる時であることは確かである。神と心が通じ合って泣くような、そのような体験をしたいと思う。聖書を通して神が語りかけてくださるから、その語りかけを十分に受けとめる時、そこから僕が動かされる時、神と心が通じ合うことは確かだ。


 明日の説教で苦しんでいる。マタイ28章の後半がテキスト。復活したイエスが弟子たちとガリラヤの山で会う場面。イエスはすでに山にいる。そこに弟子たちが行き、弟子たちはイエスを認める。弟子たちはイエスを見て、ひれ伏す。が同時に「疑った」と聖書は書く。何を疑ったのかは明らかではないが、イエスの復活を疑ったに違いない。しかし目の前には復活したイエスがいる。疑う余地がないように見えるが、「疑った」とある。この「疑い」に執着しているが、どんなメッセージができあがるのか。