クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.5.9) 聖書 ヘブル 11:1〜2 
現実をありのままに受け入れ、希望を失わない(2)

 以前牧会していた教会において経験したことがあります。ある教会員の息子さんが多発性骨髄腫というガンになりました。足のくるぶしの部分にガンができたのです。医師は転移を防ぐために足を切断することを提案しました。そして手術が行われました。これで安心だと思っていたら、転移が発見されました。そのことを医師から告げられた時、どんな思いをされたのかと思うといたたまれない思いがしました。


 若かったのでガンの進行が早かったのでしょう。ガン治療では有名な病院でしたが、やがてこれ以上治療のしようがありません、と告げられました。医師から見放された形になりましたが、家族は治療のためのあらゆる手段を求めました。やがて免疫療法による治療を受けられましたが、結局、亡くなられました。


 その間、私はお母さんである教会員を御言葉によって励ましながら祈って回復を期待しました。彼女も私も神に必死に祈りましたが、残念な結果になりました。愛する息子を失い、その妻と二人の子供が残されました。この現実を受け入れるまで、彼女は苦しみました。無理もありません。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブル11:1)

とあるように回復を信じて祈り続けましたから、私も大きな落胆を覚えました。
 彼女は今も信仰生活を続けています。厳しい現実を受け入れ、前向きに信仰に生きています。今日も

「現実をありのままに見つめ、受け入れている。現実がどんなに悲惨なものであっても希望を失わず、前向きに生きることができる」

ことを聖書から聞いて考えたいと思います。四つの点から考えたいと思います。

 第一に悲惨な現実、苦しく悲しい現実には意味があるということです。旧約聖書にヨブという人物が登場します。彼はひどい病気で苦しみ、死ぬことを願ったほどの思いを経験しました。自分がなぜ、ひどい病気になったのか、理由がわからずに余計に苦しみました。彼は病気という現実を受け入れることができませんでした。


 見舞いに来た友人たちが、何か罪を犯しているから罰として懲らしめとして病気になったのだから、罪を告白し、神に赦しを求めれば癒されると忠告します。ヨブは友人に対して、苦しむ自分にむち打つような、ひどいことを言っていると咎めます。そして神に抗議をします。なぜ、自分はこのような目に遭うのか。


 実は、ヨブが病気になったのには実は理由がありました。天において集会がもたれていました。神の前に天使たちが集まっていたのです。そこにサタンが来ます。神は言うのです。

「おまえは、わたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で神を畏れ、悪を避けて生きている」。

するとサタンは神に言うのです。

「ヨブは利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。御手を伸ばし、彼の財産に触れてご覧なさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」。

 つまり神様は、ヨブを誇りに思い、ヨブほど神を畏れ、悪を避けている人はいないとサタンに話をし、サタンはヨブが神を畏れ信じているのは御利益があるからで、もしヨブが財産を失うようなことがあれば神を呪うに違いないと言ったわけです。
そこで神はサタンに

「好きなようにして良い。ただしヨブには手を出すな」

と言います。するとサタンは、災難を起こし、ヨブの子供たちは皆死に、財産もすべてなくなってしまいました。しかしヨブは神を呪うことをしませんでした。


神はサタンに

「ヨブを見たか。神を畏れ正しく、悪を避けている」。

 そこでサタンは、

「人は命のためには全財産を差し出すものです。生死に関わる病気にすれば、神を呪うでしょう」

と言うのです。そして神がサタンに

「おまえのいいようにするがよい」

と語り、サタンはヨブをひどい病気にしたのです。これがヨブがひどい病気になった理由です。


 ヨブはなぜ、神を畏れるのか。サタンは、神がヨブを祝福し豊かな財産を与えたからだといい、神は、ヨブは神が神だから神を畏れているのだと言います。どっちが本当なのか、それを試そうということで、ヨブはひどい病気になったのです。私たちはなぜ神を信じるのか、神が御利益を与えてくれるから神を信じるのか。それとも神がまことの神だから神を信じるのか。それが問題となったのです。


 天上の集いで、神とサタンのこのようなやりとりがあったことをヨブは知りません。だから自分がなぜ、ひどい病気になり、死ぬことを願う程のみじめな状態になったのか、理由はわかりません。しかし理由はあったのです。


 人は御利益があるから神を信じるのではない。神が神であるから神を畏れる信仰に人は生きる、ということの証人になるようにヨブは選ばれたのでした。ヨブの苦しみには理由があり、ヨブに対する神の期待があったのです。神はヨブが神を畏れる人であり、御利益がなくなったからといって神を呪うことはしないとの期待。ヨブは真の信仰者であるとの期待が神にあり、ヨブはそれに応えると神は知っていたのです。


 でもヨブは何も知らず、ひどい苦しみであえいでいました。苦しみのゆえに、サタンが言うように神を呪うこともできます。神を恨むこともできます。しかしヨブはそれをしませんでした。自分が悲惨な状態になった理由がわからずとも、神から見れば理由があると考える時、打ちひしがれ絶望するのではなく、神を信頼して生きていくことができます。


 自分にはわからないが、この苦しみには理由がある。この苦しみにもかかわらず、自分はなお神の顧みの中に置かれていることを信じることができるのです。そしてこの苦しみが神に用いられることを信じ、前向きに生きていくことができることをヨブ記は教えています。


 第二は、神は悲惨な現実から我々を救い出すことができるということです。悲惨な現実と言えば、エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民は正に悲惨な状態にありました。奴隷状態が何十年と続いているのです。そして彼らは神に助けを求めて叫ぶのです。何年も何十年も神に助けを求めて叫ぶのです。そして神のよしとされる時が来て、神は彼らを救い出すのです。そのために神はモーセという人物を選びます。


 これは聖書の出エジプト記に書かれています。聖書は神を、私たちを苦しみから救い出す方として紹介しているのです。聖書が告げる神は、人間世界を天から見つめて、善を行う者を祝福し、悪を行う者を罰する裁判官のような神ではありません。苦しみの中から叫ぶと救い出してくれる神を聖書は紹介しているのです。新約聖書が宣べ伝えるイエスもまた、苦しむ人々を救われました。病気で苦しむ人、悪霊に取り憑かれて苦しむ人を癒されました。また人々から罪人と蔑まされた人の友となり、彼らを孤独から、人々の侮辱から救われました。そしてイエスは人間を罪の支配から救うという人間の思いを越える救いの働きをなさいました。聖書が告げる神は、人を救う神です。だから、私たちは、悲惨な現実、辛い、苦しい現実の中にあっても、神の助け、救いを待ち望んで生きることができます。それを信じることができるのです。

 そんなこと言っても、なかなか助けてもらえないという思いを持つ人もおられると思います。アメリカ人のリチャード・ニーバーが作ったとして知られている詩を紹介します。

「神よ、私に変えることのできないものは/それを素直に受け入れるような心の平和を/変えることのできるものは、それを変える勇気を/そして変えられるものと変えられないものとを見分ける知恵を/私にお与えください」。


 どうにも変えることができないように見える現実がある。神に助けを求めて祈り続けてきたが何の答えもない。どうしようもないと思わざるを得ない現実がある。そのような苦しみの中にある祈りから生まれた詩といってよいと思います。神に対する深い信頼に根ざした詩です。


 どうにもならないと思えることについては受け入れる心の落ち着きを与えてください、現実をありのままに見つめ受け入れることができる心の平和を与えてくださいと祈ります。そして、どうしようもないように見えるが、私にもできることがあるのではないか、この現実を変えるために私にもできることがある、それをする勇気を与えてくださいとの祈りが続きます。


 変えられないものと変えることができるものを区別する知恵が与えられ、変えることのできるものを変えていく勇気を与えられ、行動を起こしていく時に、どうにもならないと思える現実に変化が生じるのです。そこに希望があり、前向きに生きることのできる理由がある、とこの詩は語っています。神は現実を変えることができる、そして私にも変えることができる。希望をもって前向きに生きることができるのです。


 第三に、本当に大切にすべきものを大切にして生きることの重要さです。生きるとは、何かを得ることであり、また何かを失うことです。最愛の人を得る喜びがあり、最愛の人を失う悲しみもあります。得ることの喜びと失うことの悲しみが交錯するのが人生といえます。


 そこで考えておくべきことは、あなたにとって一番大事なものは何か、ということです。一番大事なものが失われる可能性があるとしたら、そして実際に失うことになったら大変です。一番大事なものが失われたら、それに代わるものはありませんから、その悲しみを乗り越えることは難しくなります。希望を持つこともできなくなります。


 決して失われることのないものを一番大切なものとするなら、他のものが失われて苦しいことや悲しいことがあっても、一番大切なものを大切にすることによって私たちは希望をもって生きることができます。聖書は、一番大切なことは

「愛」

だと教えています。愛する人を失うこと、愛してくれる人を失うことは悲しいです。そのような悲しさの中にあっても、なお私たちは人を愛し人から愛され、神を愛し神に愛される喜びを持つことができます。


 愛に生きることはいつでもできるのです。そして私たちを変わることなく愛してくださる神こそ、私たちの希望です。愛する家族、愛する教会員が私たちの希望です。ですから、教会員が互いに愛し合う教会を築くことは、本当に大切なことなのです。決して失われることのないものを第一とすることによって、失うことから来る失望から心は自由にされます。

 最後に私たちの究極の希望は神の国です。人生は旅です。目的地は神の国です。多くの信仰者が神の国を目当てにして生涯を送りました。信仰のゆえに命を献げた人、殉教の死を遂げた人がいます。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16:25〜26)。

 信仰を貫いて生きることは、喜びなのです。イエスのために命を捨てることがあったとしても、私たちは命を得て神の国で永遠を生きるのです。この世の人生は長く見えても永遠からみれば一瞬です。私たちはどこで永遠を過ごすのか、それが重要です。そして私たちはどんな時でも、神の国を目指す旅を続けることができますし、今も旅をしているわけです。どんなに辛くても、苦しくても、寂しくても、悲惨であっても、教会に連なる時、この旅を共にしてくれる人がいて、互いに愛し合う兄弟がいて、私たちは神の国を目当てにした旅を送ることができます。神の国を目指している限り、希望は失われず、前向きに絶えず生きていけるのです。


信仰の成長の第七のポイントはこうでした。

「現実をありのままに見つめ受け入れている。現実がどんなに悲惨なものであっても希望を失わず、前向きに生きることができる」。

この鍵は、私たちが何を信じているか、です。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブル11:1)。

  • 苦しみには意味がある。
  • 神は私たちを助けることができる
  • 愛こそ、一番大切である。

このことを信じて生きる時、第七のポイントを自分のものとすることができます。


祈り

 天の父、どのような現実に直面しても、その現実を受け入れ、向き合い、希望をもって前向きに生きていきたいです。成長させてくださるのは神様ですから、私たちを導き、成長させてください。
どうにもならない現実に直面している人がいたら、あなたが希望を与えてください。また苦しむ人により添い、励ます人とならせてください。教会に連なることにより、愛し愛されることの素晴らしさを知り、いつも希望をもって現実に直面できるようにしてください。何よりも、神の国の希望をしっかり心に刻んで生きることができるように助けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。