クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.5.30)

聖書 使徒言行録 2:43〜47 神に導かれる一致


 先週の弟子コースの学びの中で、宿題を分かち合いました。「仕える」ということがテーマでした。あなたは家庭において家族に対してどのように仕えるのか、教会でどのように仕えるのか、この社会に対してどのように仕えるのか、をそれぞれが考え、その決意を述べるという宿題です。


 家族に対して、どのように仕えるかで、私は妻の母に対してどのように仕えるのか、をあらためて考え直すことに時間を割いたので、妻に対してどのように仕えるかについては、すっかり忘れてしまいました。発表の時にそれに気づいて、どうしようか、思いついたことを話そうかと思いましたが、正直に忘れてしまったと告白しました。すると誰かが、

「一体になっているからね」

と言いました。私が忘れたと話したことに対してフォローしてくれる発言でした。聖書にも、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。


 一つであること、それは良いことです。一つであるべきことが分裂し、二つに分かれてしまう、それは悲しいことです。一つの民族が二つの国家に別れる、悲しいことです。沖縄の普天間飛行場の移転問題で、鳩山首相沖縄県民は、この問題の解決を一つとなって喜ぶどころか、深い対立、溝ができてしまいました。政治家と国民が不信感によって分裂することは悲しいことですね。また家庭にあって、夫婦が、親子が、兄弟が一つになれず争ったり、別れたり、行き来がなくなったりすることも残念なことです。人と人とが一つになる、それは素晴らしいことですが、むずかしい面もあります。今日の聖書には、何と、一つとなった人々が登場します。聖書は私たちに希望を与えます。


 イエスを信じた人たちが、集団をつくり、それが教会となっていきます。今日読んだ聖書の直前には、3000人の人が洗礼を受けたと書かれています。イエスを信じる人々の群れ、集団が生まれ、教会が誕生しました。教会と言っても教会堂があるわけでもないし、教会という組織ができたわけでもなく、信者たちが、一緒に活動をして、集団、群れをつくっているに過ぎません。


 でも彼らは、信仰者の共同体を築き、イエス・キリストを人々に宣べ伝える働きをするようになっていきました。その彼らが何をしていたのか、それが今日読んでいただいた聖書に書かれています。


信仰者の群れ、信仰共同体の特徴は、人々が「一つ」になっていたことです。

  • 44節には、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し」とあります。
  • 46節には、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」とあります。
  • 47節には、「主は救われる人々を日々仲間に加え、一つにされた」とあります。
  • 4章には、イエスのことを話しているペトロたちが逮捕され、イエスのことを二度と話すなと脅かされて釈放された時、人々は心を一つにして神に祈ったと書かれています(使徒4:23)。

 イエスを信じる者の群れ、教会は、信じる者たちが一つであったことをその特徴としていることがわかります。人々が一致している姿、それは素晴らしい姿であり、人はそれを見るといいなと思うし、自分もその中に入りたいと思う人もいる。自分の生きている場で、一致を生み出したいと思うものです。だから聖書は47節で、信者の集団は

「民衆全体から好意を寄せられた」

と書いています。


 人は、一つとなっている夫婦、一つになっている親子、兄弟、一つとなっている教会を見て好意を寄せるのです。そして人は、自分もそうなりたいと考え、どうしたらそうなれるのか、関心を持つようになります。今日の聖書では、人々は、イエスを信じ、教会に加わるようになったとあります。なぜ、最初にできた教会にこのような一致が生まれたのでしょうか。


 この一致を生み出した力は神にあります。まず神の霊である聖霊が弟子たちに注がれ、弟子たちは聖霊に満たされて神の偉大な働きを語り出しました。やがてメシア・キリストについて人々に語ります。 聖霊に満たされたイエスの弟子たちは、確信をもってイエスを宣べ伝える者となります。イエスを宣べ伝えるという使命を果たすための確信と大胆さを聖霊によって与えられます。その結果、彼らは一つとなってイエスを宣べ伝えていくのです。


 さらに弟子のペトロは神殿で大胆に話をしますが、それを気に入らない人々、当時の権力者たちがペトロを捕らえ、二度とイエスのことを語るなと脅し、釈放した時、信じる者たちの群れは、心を一つにして神に祈りました(使徒4:24)。イエスを宣べ伝える働きに対する妨害に打ち勝てるように祈ります。イエスのことを伝えたいという思いは自ずと皆が心を一つにして祈る祈りを導きました。


 私たちが一つになることがむずかしいのはなぜでしょうか。それは自分はああしたい、こうしたいとそれぞれが自分の願いを実現したいと思うので、なかなか一致できないのです。心が同じ方向を向いていればいいのですが、別々の方を見ていれば、一つになれません。夫婦の在り方はどういうものであるのか、夫婦が共通の認識を持てばいいのですが、夫婦それぞれ、相手にこうあって欲しいと考えますから、互いに欲求不満を持ち、夫婦が一つになることはむずかしいのです。


さらに43節にはこう書かれています。

「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」。

 使徒というのは遣わされた者という意味で、イエスの弟子たちのことです。彼らはイエスのことをすべての人に宣べ伝えるために遣わされたので使徒と呼ばれます。そして彼らは不思議な業としるしを行ったとあります。3章には、使徒たちが生まれつき足の不自由な人の足を癒したと書かれています。不思議な業と呼ばれるのは、理性で説明できないからです。マルコ福音書の最後にこんな言葉あります。

「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(16:20)。


 神が弟子たちに奇跡を行わせたのですが、それは弟子たちが語ることが本当であると神が述べているとの意味です。病気の癒し、それは弟子たちの語ることが本当であることのしるしだというのです。そしてイエスの弟子たちが次々と病人を癒していくのを見る時、神が本当におられ、神が働いておられるのだと人々は感じるのです。神は本当にいる、神が生きて働いている、そう思った時、神への恐れが人の心に生じます。神が私のそばに本当におられると実感する、その時、人は自ずと神に従う思いに導かれます。


 神に従うという思いに導かれた信者たちは何をしたのでしょうか。彼らはイエスが言われた「神を愛し、隣人を自分のように愛する」ことが一番大事な戒めであることを知っていました。また信者が互いに愛し合うこともイエスの大事な戒めであると知っていました。そして信じる者の群れの中には、日々の生活に事欠く貧しい人々がいたのです。そこで財産のある人は自分の財産の中から献金をし、それでもって貧しい人の生活を支えることが行われました。


 これは信者相互の愛と呼ぶことができます。それができるのは、神の愛が信者の心に注がれているからです。

聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)。


 聖霊を注がれ、聖霊に満たされた弟子たちの心に神の愛が注がれ、それが貧しい人を助ける愛となって現れました。聖霊が信者たちに愛することが大切だという思いを与え、彼らは一つ思いとなったのです。


 私たちが一つになることがむずかしいのはなぜでしょうか。私たちには神を畏れる思いが足りないし、私たちが欲を持っているからです。自分の物を人のために献げる、なかなかできません。自分は裕福で人に恵むことができるという自己満足から施しをすることができるかもしれませんが、その場合でも感謝して欲しいとか、見返りを求めます。愛によって献げることは欲がある故むずかしいのです。


 また信者たちはパン裂きを行っていたとあります。このパン裂きとは、私たちが毎月一回礼拝で行う聖餐式のことです。つまり一つのパンを割いてみんなで食べます。杯に入れたぶどう酒を分けてみんなで飲みます。この聖餐式の時には、

「これはわたしの体である。わたしの記念としてこれを行いなさい」

「これはわたしの血である。わたしの記念としてこれを行いなさい」

とのイエスの言葉を繰り返します。パンとぶどう酒をいただく、それはイエスが自分たちと共にいることを確認する行為なのです。イエスは、「私は世の終わりまであなたがたと共にいる」と弟子たちに語りました。

「これはわたしの体」「これはわたしの血」

聖餐式で語られる時、このパンとぶどう酒は、イエスが共にいてくださることを示しているのです。パンとぶどう酒をいただく時、信じる者たちは、イエスが共にいることを味わったのです。それは神が共にいて生きて働いておられるという思いと共に深い感動を覚えたことと思います。


 さらに、パンはもともと一つのパンです。それを割いて配り食べました。だからパンを食べる時、私たちは一つなんだという喜びが湧いてくるのです。一つであることを確認し、それを喜ぶ、それがパン裂きであったのです。ですからパン裂きは信者たちが一つであることを喜ぶ時でした。

 こうしてみると、弟子たちが一つになったのは、神の導き、神の恵みと言う他ありません。聖霊の働きが信者の一致をもたらしたと言ってよいです。


 信者たちが一つとなっている様子はどんな影響を与えたのでしょうか。「民衆全体から好意を寄せられた」とあります。そして

「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」

とあります。一つになった人々の姿、それは魅力ある姿で、他の人の注意を引くだけでなく、自分もその中に加わりたい、自分もそのようになりたいという思いを生み出すのです。その結果、教会には次々に人が加えられたと今日の聖書は書いています。


 今日、一致の中に生きることは困難です。夫婦、親子、兄弟という親しい関係の中でも、一致がなく分裂が多い今日です。人は自分のことしか考えず、他人のことはどうでもいい、そういう風潮が蔓延しています。


 人々が心を一つにしているところに入ることができる、それは救いです。互いに愛し合うことによって家庭が本当に居心地の良い救いの場所となって欲しいです。信者が一つとなり、互いに愛し合い互いに励まし慰め合うことによって教会が本当に生きる力を与えられる場所になって欲しいです。


 世の人々は、クリスチャンの家庭が、そして教会が、心を一つにした人間の交わりになることを待っているのです。自分たちも心を一つにできる交わりの中で平安を与えられ、励ましを与えられ、生きる喜びを与えられるのを待ち望んでいるのです。


 そのために神様は信じる者に聖霊を賜物として与え、一致を生み出すように願っておられるのです。神が一致を導いてくださいます。神の導きに応えて家庭に、教会に、社会に一致を生み出す働きをしていきましょう。聖霊の導きを共に祈って励みましょう。


祈り

天の父、わたしたちの世界は争いと分裂に満ちています。そして人の心は不安や恐れ、不満やいらだちで満ちています。平和が本当に尊いものであると知ります。
天の父、私たちに心を一つにした家族、心を一つにした教会を築かせてください。
平和を愛に満ちた交わりは理想ではなく、現実に造ることができるという希望をこの世に伝えていくことができるように私たちを導いてください。
何よりも、私たちが一致のある交わりの中で喜びを味わうものとしてください。教会が神の家族として一つとなりますように。
 ここに集った一人びとりの家庭が愛に満ちた一致のある家庭となりますように。また一致を生み出すことが困難な人に希望と忍耐する心を与え励ましてください。イエス・キリストの御名により祈ります。