クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.6.20)
聖書 ルカ 22:39〜46 祈りの中でいつも自分を見つめ、神の御旨を見つめている


 今、サーカーの世界選手権、ワールドカップが開催されています。日本は初戦に勝ちました。おかげで日本がどこまで勝ち進むのか、多くの人が興味を持って見守っています。ワールドカップに出ている日本の選手は、この大会に出ることを大きな目標として励んできました。この大会に参加して勝利したことは、選手の人生にとって記念となる出来事だと思います。選手たちが年老いた時、自分の孫たちに、おじいちゃんはあの時頑張ったんだよと誇らしげに語ることができる出来事だと思います。私たちの人生は、色々な思い出の蓄積と言えます。人生の最後で、私たちは自分の人生をどのように評価するのでしょうか。誰もが悔いのない人生となるように努力していると思います。

 私たちの人生の目的とは何でしょうか。人によって答えは違うでしょう。そして人はそれぞれ、何らかの目的、目標を持っていると思います。

  • ある人は自分の夢を実現すること、
  • ある人は、歴史に名を残す人になること、
  • ある人は裕福な生活をすること、
  • ある人は、穏やかな生活をすること、
  • ある人は、幸せな家族生活を送ること。

 私は信仰を持つ前、そのためなら自分の命を捨てても惜しくないもの、そういうものを生涯の仕事にしたいと考えたことがあります。牧師になってからは、たった一人でもいい、神の愛を伝えることができたなら、と粋がったことを覚えています。人はそれぞれ、何かの目的を目指して生きているのだろうと思います。


 クリスチャンになった人から

「何を祈ればいいのですか」

と質問を受ける時があります。

「自分の願うことを神に祈り求めたらいいと思いますよ」

とまず答えます。クリスチャンの祈りはこうでなければならないと、決めつける必要はありません。まず、神に願うことがあれば、それを祈ればいいですね。イエス

「求めなさい。そうすれば与えられる。捜しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開けてもらえる」

と祈ることを勧めています。ですから私たちは、自分の願うことを求める所から、祈りを始めます。


 ところが聖書を読んだり、説教を聞いていくうちに、クリスチャンは自分のことだけではなく、人のために祈ることが大切らしいと学んでいきます。とはいえ、なかなか自分の生活で忙しく、他の人のことまで頭が回りません。そこで「自分のことしか祈れなくて」と恥ずかしそうに語る人もいらっしゃいます。


 そこで思うんです。多くの人は自分の願い、自分の思いが実現することを幸せとしています。しかし、神様の計画が自分の人生を通して実現していく、そういう人生もあるわけですね。あってよいわけです。聖書に出てくる人物を見ると、彼らの人生を通して神の計画が実現するという話しが多いですね。たとえばモーセ。彼はエジプトの国で奴隷で苦しんでいたイスラエルの民を救い出す神の計画の中で、神から指導者として立てられ、イスラエルの民をエジプトから救い出すという神の計画に用いられる人生を送ることになります。


 創世記に登場するアブラハムもそうです。彼はある日、神の呼びかけを聞きます。「私の示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にする」。彼はいきなり、神の計画に生きるように呼び出されました。新約聖書には、魚をとって生計を立てていた漁師が登場しますが、ある日、イエスの「私についてきなさい」という呼びかけを聞きます。彼らは網を捨ててイエスに従います。イエスの呼びかけに応えることによって、彼らは神の計画に生きるように呼び出され、そのように生きたのです。そして、私たちイエス・キリストを信じる者たちもまた、神の計画に生きるように、神のみ心を大切に考え、神の御旨に生きるように呼びかけられていると言ってよいわけです。

「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた」(申命記7:6)。

 イスラエル民族は神に選ばれた民、選民と呼ばれます。神はすべての民からイスラエルを区別し、イスラエルを神の民としました。同じように神は、地上にいるすべての人から、イエス・キリストを信じる者を区別し、選び出し、教会に連なるように導かれました。神の御旨、神のみ心を大切にして生きる人となるように選び出したのです。


 人生には、神の御旨を大切にして生きる、という目的があります。神様が私に対して持っている計画に従って生きるという目的があります。私たちはなかなかそれに気づきにくいかもしれません。単純に、「愛する」ということを大切に日々生きていく、これは神様の願いですね。神様は、私たち一人一人が、身近な人を愛して生きるように、私たちに対する計画をもっておられ、私たちが愛すべき人を側に置いてくださいます。家族、教会員はその例です。

祈りの中でいつも自分を見つめ、神の御旨を見つめている。神の御旨の実現と自分の霊的成長を何よりも大切に考えるようになった。御言葉によって生かされていることの意味を知った」。

 信仰の成長の第9のポイントです。このポイントは、祈りについての新しい理解を述べています。つまり、祈りが、

  • 自分の願い事を神に告げるものではなく、
  • 自分を見つめ、神の御旨を見つめるものとなっています。
  • 自分の心を探り、神の御旨を探る祈りになっているということです。

 そこで今日読んでいただいた聖書の箇所を見てみます。ルカ22章39節から46節です。イエスはオリーブ山に弟子たちと一緒に行きます。イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と命じ、自分は弟子たちから少し離れた場所で祈ります。イエス祈ります。

「父よ、み心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。

 まずイエスは願いを述べています。「この杯をわたしから取りのけてください」。イエスは既に弟子たちに、自分は捕らえられ、むち打たれて殺されることを告げています。イエスはこのことが起こらないようにと神に願いました。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってくださいと祈りました。


 イエスは神の御旨を祈りの中で見つめました。神のみ心は、イエスが犠牲の死を遂げることでした。旧約聖書に救い主は人々の罪のために死ぬことが預言されています。ですから、神の御旨は、彼が死ぬことにあることは明らかです。イエスは神の御旨をはっきり見つめています。同時にイエスは、祈りの中で自分の心も見つめました。イエスが死ぬ死、それは神に見捨てられる死なのです。人間の犯した罪すべてを背負って神の怒りを受け、神の罰を受けるからです。それは想像を絶する恐ろしいものです。だからイエスはそれを避けることができるなら避けさせて欲しいと祈ります。避けられるものなら避けたいというご自分の思いを見つめ、神に祈られたのです。神のみ心を見つめ、自分の心を見つめてイエスは祈られたのです。これもまた祈りなのです。


 かつて私は、自分が牧師に召されているのかどうか、確かめたいと思ったことがあります。行き詰まっていたのです。私が牧師になるのは神の御旨なのか、教えてくださいと祈ったことがあります。何日も祈りました。その時、神の答えが与えられました。与えられたと言っても、不思議なことが起きたわけではなく、私の心の中に一つの思いが与えられました。

「あなたが本当に福音を宣べ伝えたいと思っているなら、そうしなさい」

というものでした。そこで自分の心を見つめました。福音を宣べ伝えたいと心から願っているのかどうか。自分の心を探り、「私は願っている」と結論を出しました。その後、神の召しについて迷いはなくなりました。


 皆さんも、苦しいことが起きた時、祈ると思います。そしてその苦しみにどんな意味があるのか、教えてくださいと祈ることがあると思います。神のみ心を見つめようとしているのです。自分は苦しい、どんな風に苦しいのか、その苦しさを祈りの中で告白しつつ、つまり自分の心を見つめつつ、神に苦しみの意味を教えてくださいと祈るわけです。


 聖書の神に対する祈りには、このような、神の御旨を見つめ、自分の心を見つめ、神と対話するような祈りがあるのです。自分の心を探り、神のみ心を求める祈りがあるのです。そして実は、苦しみがなくても、特別な悩みがなくても、神様は私に何を求めているのだろうか、とみ心をみつめる祈り、み心を教えてくださいという祈りはできるのです。私たちのありふれた日々の生活の中で、他の人たちと違ってクリスチャンとして生きている私たちに

  • 神は何を期待しているのか、
  • 日々のありふれた生活の中で、どう生きることが神のみ心となるのか。
  • 神様が私たちの人生を通して神様の計画を実行しようとしているなら、私は何をしたらよいのか、
  • あるいは私たちの教会は何をしたらよいのか、と神の御旨を探る祈りがあります。

 これは自分の求める所を神に願う祈りと比べると、深められた祈りということができます。神との交わりに生きるところから生まれる祈りです。信仰の成長の第9のポイントは、このような祈りができるようになることだというのです。


 第9のポイントはこう続きます。

「神の御旨の実現と自分の霊的成長を何よりも大切に考えるようになった」。

 神の御旨の実現を大切に考えるようになるとあります。以前の私たちは自分の人生が自分の願い通りになることを願っていました。それは、幸せになりたいから、よい人生を送りたいからです。しかし、自分の願いの実現から、神の御旨の実現へ、私たちの関心が変化していくのです。それを信仰の成長と第9のポイントは呼びます。信仰の成長と共に祈りが深まります。それは今述べたように、自分の願いを神にかなえてくださいと求める祈りから、神の御旨を見つめ、自分の心をみつめる祈りへと祈りが神との交わりになっていくからです。私たちが神の御旨の実現を考えるようになり、それを願い、私たちを通して、神のみ心が実現していくことを神は喜ばれることでしょう。わたしたちの生活がうまくかない、どうしていいかわからないという時は、神の御旨を考えるきっかけではないかと思います。


 今年度の教会の主題聖句は、エフェソの信徒への手紙5章1〜2節です。

「あなた方も愛によって歩みなさい」。

 これを私たちは神の御旨と受けとめます。愛によって歩み、神の御旨を行うことを考えます。この聖句は長老会が決めたことであって、私には関係がない、と言うこともできます。長老会は、神のみ心を求めてこれを主題聖句としましたから、私たちは、ここに神の御旨があると信じます。そこで家族をどのように愛したらよいのか、教会員同士、どのように愛したらよいのか、教会に来にくくなったお年寄りの教会員をどのように愛したらよいのかを考える。このことを大切に考える、それができるのが信仰の成長なんだと、この第9のポイントは告げるのです。神の御旨の実現を何よりも大切に考えるようになる。皆さんはどう考えますか。

「信仰の成長を大切に考える」

は次回の説教のテーマとします。


祈り

天の父、祈りの中であなたの御旨を見つめ、自分の心をみつめる祈りのあることを教えられ感謝します。自分自身の行き詰まり、どうにもならない無力さの中で、あなたの御旨を見上げることを教えてください。
天の父、日々の平凡な生活の中にも、私たちに対するあなたの期待、私たちの教会に対するあなたの計画のあることを教えてください。そして、あなたの御旨を見つめ、それに応える歩みをさせてください。答えようとする時の、自分の心がいかなる者であるかをきちんと見つめることができるようにしてください。
天の父、あなたとの交わりに生きるのが信仰です。深められた祈りに生きることができるように、私たちを憐れんでください。イエス・キリストの御名により祈ります。