本日のメッセージ(2010.8.8)
聖書 ルカ 15:11〜32 父の気持ち
今日は、ルカ福音書15章から、お話しします。「放蕩息子のたとえ」と見出しがついています。これを初めて読むと、ずいぶん不公平な父親だ、甘い父親だと思う人が多いようです。このたとえは、愛されて生きる素晴らしさを教えています。また自分を愛してくれる愛、その愛に気づくことの大切さも教えています。そして愛こそ、人を変えることをも教えています。
ある人に二人の息子がいました。弟息子が父親に言います。
「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」。
弟息子はなぜ、こんなことを言ったのでしょうか。このまま家にいたのでは、自分の人生が幸せなものとならないと感じていたからです。そう考えた一つの理由は、兄です。兄は父のもとで働いているのですが、喜びをもって生きているようには見えないので、家を出た方がよいと感じたのです。あるいは、家を出たい、都会に行きたいという若者らしい思いがあったのかもしれません。
父親は寛容にも、財産を分けました。父親が生きている時に財産を分け与えることは当時の習慣としてあったようです。財産を相続させても、財産の処分権は、父親が生きている限り、父親にあったと言われています。しかしこのたとえでは、弟息子は相続した財産を処分して金に換え、家を出ました。父親の影響の及ばない遠い国に行きました。自由に生きることができると思うと、彼は幸せだったに違いありません。
彼は、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしたと描かれています。本当なら、財産を有効に使い、将来に向けての生活設計をすべきでした。しかし若さゆえ、そこまで考えることができませんでした。結局、快楽を追い求め、財産を使い果たし、あげくの果てに行き詰まりました。無一文で飢饉が起き、食べるものがなく、飢え死にしそうになりました。
ある人を頼り、豚の世話をする仕事を得ました。豚というのは、イスラエルの人にとっては汚れた動物ですから、豚の世話をするというのは、どん底まで落ちぶれたことを意味します。豚の食べるいなご豆を食べたいと思いました。惨めさを身にしみて感じました。
その時彼は
「我に返ります」。
父親のもとでは、大勢の雇い人に有り余るパンがあったことを思い出します。そしてこのままでは飢え死にするので、父のもとに帰ることを決心します。父の財産を使い果たしたのですから、父親に対して申し訳ないという思いがあります。そこで彼は、
「天に対して、またお父さんに対して罪を犯しましたと謝り、雇い人の一人にしてください」
と言う覚悟をもって家に帰ります。
彼がまだ遠く離れているのに、彼の姿を見つけた父親は、憐れに思って走り寄るのです。そして首を抱き接吻します。この父親は、いつ息子が帰るのかと待っていたことがわかります。顔をあげて外を見ては、息子が戻ってきていないか、といつも息子の帰る姿を待っていたのです。
その息子が父に向かって、謝り、息子と呼ばれる資格がありませんというと、それ以上のことは言わせないとばかりに、父親はしもべたちに命令を下します。落ちぶれてみじめな姿で帰ってきた息子に最高の装いをさせるのです。そして
「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」
と喜び、子牛を屠って祝宴を開きます。子牛を屠る、この上ない盛大な喜びの宴会です。
言うまでもなく、この父親は帰ってきた息子を赦しました。息子が戻ってきたことをとても喜びます。息子と呼ばれる資格がありませんと思っている息子を、人々の前で、雇い人の前で、自分の息子として取り扱います。この父親は、息子の存在そのものを受け入れ、喜びます。人は、この息子のことを放蕩息子、駄目な人間というかもしれません。しかし、父は、息子を赦し、受け入れ、喜ぶのです。なぜなら、帰ってきたからです。父のもとに帰ってきたからです。
- 遠くにいる息子の姿を見て走りよる父の姿、
- 息子に最高の装いをさせるようにしもべたちに命じる父の姿、
- 祝宴を開くように命じる父の姿があります。
- 父は息子に何も言いませんが愛にあふれている父の姿です。
この弟息子がこの後どうなるのか、聖書は何も書いていません。おそらく父のもとで働くことになります。家を出る前、喜びや生きがいを感じないで父のもとで働いていた兄を見ています。父のもとで働くことを彼はどう思っているのでしょうか。
一つだけ、彼は以前とは違う所がありました。つまり彼は父親の気持ちを知ったことです。放蕩で財産を使い果たした自分を父は赦し、受け入れ、喜んでくれたことです。自分をこんなに愛し、喜んでくれる父親がいる。そのことに彼は気づいたのです。父の気持ちを知ったのです。
この父の愛に応えて生きていきたいという気持ちになったと想像しても間違いはないと思います。父親は彼のありのままを受け入れてくれました。しかし彼は、今や、父親の愛に応えて、父の喜びとなる息子になりたいと考えたに違いありません。聖書はこれを悔い改めの実を結ぶと言います。
このたとえを初めて読む人に感想を聞くと、この父親は甘い、とか、不公平だという人がいます。そういう感想を持って当たり前だと私は思います。このたとえを理解するためには、このたとえをイエスが語った状況を理解する必要があります。それは15章の最初に描かれています。
「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」。
ファリサイ派の人々や律法学者たちというのは、神の掟を守ろうと熱心な人々です。逆に、徴税人や罪人というのは、神の掟を守らない人たちです。ファリサイ派や律法学者の人たちからすれば、徴税人や罪人たちというのは、つきあってはならない人たちなのです。彼らと交際すれば、彼らの汚れを受けると考えているのです。しかしイエスは、平然と彼らに近づき、一緒に食事さえするのです。彼らがイエスに対して不平を言うのは、彼らがイエスを教師として認めているからです。そして教師としてはあるまじき行動をしている、と不平を言ったのです。そこでイエスは、たとえを語ったのです。
たとえに戻ります。弟息子が帰ってきたことを喜ぶ祝宴は、兄が畑から戻る前に始まりました。変だなと思われるかもしれません。15章の最初に、イエスは、徴税人や罪人たちを一緒に食事をしていましたが、ファリサイ派の人々は、その様子を見ているだけで、食事の輪の中に入ろうとしませんでした。兄のいないのに始まった祝宴、それはイエスが徴税人や罪人たちを迎えての食事の輪にファリサイ派の人々が加わっていないことを示しています。
さて兄は、弟が戻り、子牛を屠って祝宴を父が始めたことを知って、非常に腹を立てます。そして家に入ろうとしません。そこで父親は、家から出てきて、兄をなだめます。弟息子の場合もそうですが、父親の方から、息子に近づいているのです。父は、しもべに命じて、外にいる兄息子に家に入るように命じることはできます。何をすねているんだ、大人げない、と叱ることもできたでしょう。しかしそんなことは一切せずに、自分から息子に近づいていくのです。この父には、親の面子、親のプライドというものがないように見えます。親のプライドがあれば、帰ってきた弟息子に、一言、言うでしょう。それをしないから、この父親は甘いと言われます。しかし、愛こそ、人を変えるのです。
親子の関係でも、夫婦の関係でもそうですが、よい関係を築こうとしたら、面子、プライドは、邪魔になることはあっても役に立つことはありません。
兄の言い分は、不公平ということです。放蕩で身を持ち崩した弟のためには、子牛を屠るのに、自分が友達と宴会を開くためには、子山羊一匹すらくれないと不平を言います。このたとえを読んで不公平だと思うのは、人はその行いに応じた報いを受けるべきだという考えがあるからです。当たり前の考えです。帰ってきた息子が雇い人になるなら、あるいは息子として受け入れられるとしても、当面は、罰と呼べるような仕事をさせられるなら兄も納得したでしょう。ところが全く逆なので兄は怒ります。父は言います。
「おまえはいつもわたしと一緒にいる。だがおまえのあの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。
父にとっては当たり前なのですが、兄にとっては当たり前ではないのです。この食い違いはなぜ生じたのでしょうか。どこから生じたのでしょうか。
帰ってきた弟息子は放蕩に身を持ち崩し、父親の財産を使い果たした男です。このことは父親にとっても残念なことだったでしょう。父から相続した財産を有効に使うことを考えることもできず、考えようともしない人間です。人は、この弟息子のことを、どうしようもない人間、駄目な人間、と評価するでしょう。兄もそうです。
しかし、しかし、父は違ったのです。息子が戻ってきた!しかも悔い改めの気持ちを持って戻ってきたのです。うれしいことではありませんか。だから父は彼を赦し、息子として受け入れます。息子の再出発に期待するのです。
兄はどうでしょうか。駄目な弟が戻ってきた。それだけです。弟の再出発には関心がありません。それどころか弟を迎えて父が祝宴を開くことに妬みすら覚えるのです。父は弟息子を見放しません。再出発を期待します。だから、いなくなっていたのに見つかった、死んでいたのに生き返ったと言うのです。そして「だから喜ぶのは当たり前」と言うのです。父にとっては弟息子も大切な子です。たいせつな子が戻ってきた、これほどうれしいことはありません。
このたとえで大切なことは、このように愛してくれる父と共にあることが喜びだということです。弟息子はこの父の気持ちを汲み取ったに違いありません。神とはこの父のようであり、このような神を信じることが信仰なのです。イエスはこのような神を伝えようとしているのです。神は赦し、受け入れ、再出発を期待するのです。
兄は、父が自分の働きを認めてくれることしか念頭にないのです。弟に対する父の振る舞いは、自分の働きを全く認めていないように思えて、怒ります。父といつも一緒にいて、父のもとで働き続けていた兄は、父の気持ち、父の愛に気づかなかったのでしょう。父の気持ちを思うよりも、自分を認めて欲しいという気持ちの方が強かったのです。
徴税人や罪人と呼ばれる人たちは、神に背を向けて生きている人たちでした。だからファリサイ派や律法学者の人たちから、つまり真面目に神の掟を守っている人たちからは、どうしようもない人間と見なされていました。ファリサイ派や律法学者の人たちは彼らとの間に隔ての壁を造ってしまったのです。
イエスは、違いました。徴税人や罪人たちに近づき、彼らとつきあい、彼らが悔い改めて神に立ち帰ることを願ったのです。彼らが悔い改めて再出発することを願ったのです。
今日でも、神の方から、私たちに近づいてくださいます。どんな風にして、と考えた時に思ったことは、まず礼拝において、説教者を通して、神は私たちに語りかけてくださっているということです。また聖書を読み思いめぐらす時、神は私たちに個人的に豊かに語りかけ、私たちに導きを与えてくださっているということです。神は私たちのそば近くにおいでになり、私たちを導き、生かそうとしてくださっているのです。神様の愛に感謝します。
天の父、
人は愛されていることになかなか気づかないことを思います。父の愛に気づかず一人の息子は家を出ます。父と一緒にいるのに、父の愛に気づかない息子がいました。
父の愛、すなわち、あなたの愛が深い愛であることを教えてください。どうしようもない人間を救いたいというあなたの愛が、私たちに注がれていることを教えてください。自分は立派にやっていると考え、他の人たちに対して隔ての壁を造っている人をも、あなたが愛していることを教えてください。
父と喜びを共にできない兄は、弟を愛せない姿をさらしました。別な意味で兄もまたどうしようもない駄目な人間です。でもあなたの愛が注がれています。
私たちもあなたの愛に応えて生きる者としてください。そして私たちもまた、特に家族を愛して生きることができるように助けてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。