クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 礼拝で説教がなされる。説教を聞く上で、必要な態度、心がけとは何だろうか。司式者が「心を開いて聞くことができるように」と祈る。あるいは、聖霊の導きを祈る。それは必要なことである。


 聴衆に必要なことは、自分が神によって変えられることを喜び、これを求める心ではないか、と最近感じる。自分の必要を満たす言葉を求めるだけでは、自分が変わることはない。確かに人は、励ましや慰めを必要としているし、説教にそれを求める。それが得られれば、説教を聞いた甲斐がある。あるいは、ほっとしたり、安心を与えられて、「今日はいいお話をありがとうございました」との言葉を残して教会を去っていく。ほっとすることも平安を与えられることも大切だし、よいことである。しかし、もっとよいことは、説教を聞いて、神の言葉によって変えられることではないか。


 説教を聴き続けて変わる人がいれば、変わらない人もいる。この違いはどこから来るのか。ふと思う。