クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.8.15)
聖書 ヨハネ 4:14 渇かない水


 私たち喉が渇けば水を飲みます。渇きというのは放っておくことができません。喉の渇きは、水を飲めばいやされます。水がなければ非常に困ったことになります。脱水症状になります。喉の渇きは癒す必要があります。渇きと言えば、心の渇きがあります。心が満たされていない状態を言います。クリスチャン・ホームで育った牧師が私にこんなことを話してくれました。

「中学生の時に、空しさを感じて、牧師になるしかないと思った」。

 ちょっと驚きましたが、私も、空しさからの救いを求めて信仰にたどり着いた経験がありますから、理解はできました。


 子育てを終わり、することがなくなって、心が空っぽであることに気づいて何とかしたいと思う主婦もおられることでしょう。心の渇きを自覚して、それをいやしたいと思う人もいれば、心の渇きを自覚していない人もいます。愛されることに飢え渇いている人、人から批判ばかりされたため自分を認めてもらうことに飢え渇いている人がいます。自分が渇いていることに気づかずに、しかしその行動は、渇きを癒そうとしていることを観察できることがあります。


 人によって色々な心の渇きがあると思います。どの心の渇きも、人はいやしたいと欲します。ただどうしたらいいのか、明らかだとは限りません。そこで心の渇きを癒すために、人は、あれこれ、模索します。今日の聖書でイエスはこう言っています。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(14節)。

 若い時に、生きることの空しさに悩んだ者として、イエスの言葉は、本当だ、イエスによって自分は救われたという思いが私にはあります。


 イエスが与える水は生きた水で、これを飲むと渇かないと書かれていますが、これと似た表現が,ヨハネ福音書にはあります。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。

 ここではイエスを信じる人は、決して渇くことがないと言われています。また別の箇所では、

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。

 ですから、渇きを癒すのはイエスであることがわかります。イエスを信じる人、イエスのもとに来る人は渇きが癒されると聖書は述べています。皆さんが心の渇きを感じているなら、イエスが渇きを癒してくださることを大いに期待し、渇きのいやしを求めて欲しいです。イエスは、お昼頃に井戸に水を汲みに来た女性に向かって、

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」

とおっしゃいました。この女性は、何人もの人と結婚をした経験があり、人々の評判は悪い人でした。普通、朝とか夕方とかの涼しい時に、女性たちは水を汲みに来ます。そして井戸端会議などをするわけです。イエスが話しかけた女性は、お昼頃に井戸に来ました。彼女は人に会いたくないんです。イエスは、この女性に話しかけたのです。イエスは、この女性が渇いているのを見て取ったわけです。イエスは「渇き」ということで何を考えておられたのでしょうか。


 旧約聖書は「渇き」について何と言っているのかを見てみたいと思います。詩篇42にこうあります。

「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか」(詩篇42:3)。

これを書いた人は、「おまえの神はどこにいるんだ」と嘲られているのです。困難の中で神に助けを求めているのですが、助けが来ないので「おまえの神はどこにいるのか」と嘲りを受けての言葉です。「わたしの魂は、命の神に渇く」。神に渇くのです。詩篇63にはこうあります。

「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています」(詩篇63:2)。

 神さまが、その姿を現し、私のために助けてくださることを必死に求めている信仰者の心を表現しています。助けを求めても助けてくれないなら、そんな神、信じなければいいのに、という考えもあります。私たちは、ここから神との対話が始まると考えるのです。人生は思い通りになりません。神さまはわたしの人生をどのように導こうとされるのか、神のみ心を求めて、祈りが始まります。

「見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス8:11)。

 神のみ心を知ろうとしても全く知ることができない、神の言葉を聞くことができない渇きがあるというのです。<神に渇く>といい、<神の言葉に渇く>といい、共に信仰者の持つ渇きです。言い換えると、神を信じていない人は、神に対する渇き、神の言葉に対する渇きに気づいていないで生きているということもできます。神を信じる人だから、この渇きに気づくというわけです。


 イスラエルの人たちが神出会った決定的な出来事があります。それは出エジプトの出来事です。旧約聖書出エジプト記には、イスラエルの民が、エジプト王の奴隷となって苦しみの日々を過ごしていたことが最初に書かれています。イスラエルの民は自由に対する渇きを持っていました。彼らは何十年も苦しんでいたのです。そこで神に救いを求め、神は彼らをエジプトの奴隷状態から解放します。その解放の出来事が書かれています。エジプトを脱出したイスラエルは、神が示す土地へ向かって旅をします。神が導きれる土地、そこは自由に生きることができるところです。

「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」(申命記8:7〜10)。

 奴隷として自由に渇いていたイスラエルの民は、神に導かれた土地で、自由に生きることができます。そしてそこはよい土地で、食べて満足することのできる土地です。神によって「渇き」をいやされるのです。詩篇23にはこうあります。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」。

 ここでは神が羊飼いにたとえられ、人間が羊にたとえられています。神という羊飼いに飼われている羊は、乏しいことがなく、魂は生き生きとしているというのです。神と共に生きる人の魂は、満たされているということがわかります。神と共に生きるはずのイスラエルの民が信仰から離れた時、神はこう言いました。

「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを」(エレミヤ2:13)。

 神ご自身が生ける水だというのです。ですから、イエスは、井戸に水を汲みに来た女性に、神を信じるように、いや、救い主であるイエスを信じるように話をされたと言ってよいのです。イエスを信じること、そこに祝福の源があるのです。


 イエスは渇きを癒す方ですが、イエスはなぜ、渇きを癒すことができるのでしょうか。ヨハネ4:14では「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る泉がわき出る」とあります。イエスを信じるとは別な表現をすれば、永遠の命を与えられることを意味します。そしてこの永遠の命を与えられる時、私たちは決して渇くことがなくなるとイエスはおっしゃっているのです。


 そこで「永遠の命」をいただくと、私たちはどうなるのか、なぜ、渇きを覚えなくなるのか、と疑問を持つわけですね。永遠の命をいただく時、私たちは神の子とされ、神との交わりに生きるようになります。神と共に歩むようになります。神が共にいてくださる、ここに渇きが癒される理由があります。裏を返せば、神と共に歩まない、そこに渇きが生じるのです。


 そもそも人間は、神によって造られました。神は人間がどのように生きればよいかを教えてくださいます。神が願うように人が生きれば、人は渇くことなく、喜びをもって生きることができるわけです。神さまは、私たちにいかに生きるべきかを教えてくださるので、生きる目的がわかり、空しさから救われ、心の渇きが満たされます。


 神さまが、私たちを愛してくださっているので、愛に渇く心もいやされます。神は、私たちのことを「価高く尊い」とおっしゃってくださり、自分を認めて欲しいと飢え渇く心もいやされます。こうしてイエスを信じる人は、永遠の命を与えられて神と共に歩み、渇きを癒されて生きることができるようになります。

  • 私たちはこの世に生きる時、神を知らないで生きていたために、渇きを覚えていましたが、その渇きはイエスを信じることによって癒されます。
  • 私たちが信仰に生きるようになると、信仰に生きる故の渇きが生じます。神に対する渇き、神の言葉に対する渇き、です。

 神を信じて生きる時、一つの戦いが生じます。神に対する失望との戦いです。


 エジプトを脱出したイスラエルの民は、神が導き入れようとする土地に向かって旅をします。その旅の途中で、食べ物がなくなったり、飲み水がなくなるという危機に直面します。彼らは荒野を旅するので、食物や水を手に入れることはできないのです。すると、旅をすることが苦痛になり、不平を言い出すのです。神が導き入れようとする土地は、よい土地であり、そこで生活する時、イスラエルの民は、よいもので満ち足りるのです。しかしそこに行く途中の旅で、困難が起きると神に失望し不平が出るのです。信仰者もこの世の旅路を生きる時に、困難に直面します。そして意地悪な人が傍にいれば、

「おまえの神はどこにいるのか」

と嘲るかもしれません。そのような人がいなくても、自分で、

「わたしの神はどこにいるのだろう。どうして何もしてくれないのだろう」

と失望し、いつの間にか、失望が、私たちの心の底に根を張ることがあるのです。


 その時、信仰者の戦いがあるのです。神に対する渇きのいやしを求めて神に向かっていくのか、失望を心の底に宿しつつ、信仰生活を送るのか。それなら、信仰を捨てればいいのに、と思われるかもしれませんが、罪の赦し、永遠の命という救いを受け者にとって、信仰を捨てることはできません。罪の赦しがなければ、滅びが待っているからです。うれしいことに、神は渇きを癒してくださるのです。神に対する渇きを癒し、

「私はあなたと共にいる」

と見えない姿を現してくださるのです。もし私たちが求め続けるなら、神は姿を現してくださいます。
そして私たちに教えてくださるのです。私たちの人生にとって最大の問題は、

  • 私たちを悩ます問題があることではなく、
  • 神と共に歩んでいるか否か、であると。

 もし私たちが神と共に歩んでいるなら、私たちが直面する問題は、私たちを助けてくださる神の働きが見えるきっかけとなるのであり、問題を嫌う必要のないことを私たちは知るようになるのです。私たちの人生が私たちの思い通りになるように神は私たちを助けるのではありません。私たちの人生において、神の計画、神の御旨が実現するように、神は私たちを助けてくださり、その結果、私たちの人生は、幸いなものに変えられていくのです。


 失望が信仰者の心の底に根を張る時、み言葉を聞くことの飢饉に直面しているのです。御言葉の導きを得ないと、結局、自分の思い通りにならないことに失望を感じて、立ち上がれなくなるのです。しかし御言葉に渇き、御言葉を求めていく時に、失望を乗り越え、問題があっても、解決がすぐに来なくても、神と共に歩むゆえに、渇くことなく、神に信頼し、ゆだねて生きる幸いへ導かれるのです。いつも喜んでいなさい、すべてのことに感謝しなさいという世界が開けてくるのです。


祈り

 天の父、私たちと共にいてくださるあなたを賛美します。あなたが共にいてくださる時、私たちの身に何が起きていようとも、私たちは、幸いです。
 あなたは、私たちの様々な渇きを癒してくださる方です。あなたから渇きのいやしをいただくために、あなたのみ心をいつも知る努力ができるように導いてください。
 人生は、私たちの思い通りにはなりません。しかしあなたの目で私たちの人生を見る時、私たちには、平安と希望と力が与えられ、私たちの魂は生き返ります。
 渇きを覚えている人々に、あなたが御手を伸ばし、その渇きを癒してください。あなたを知ることによって、渇きを癒される者としてください。
イエス・キリストによって祈ります。